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がん一万人の声50代 男性, 告知, 男性特有のがん

新人癌患者です。新人ではありますが、ありがたくないことに癌はかなり強力です。 今年1月20日 に、50歳で前立腺癌を宣告されました。
昨年、秋も深まるころから残尿感を感じ始め、12月22日の朝に一時的にですが排尿できない (したいのにおしっこが出ない) 状態になりました。30分ほどで排尿できるようになり、その後2~3回排尿して通常の状態に戻ったのですが、これはおかしいと思い 12月24日に総合病院の泌尿器科を受診しました。その日は、エコーチェックで前立腺肥大の診断を受け、念のため採血をして前立腺癌マーカー(PSA)を調べてもらうこととして帰宅。そして今年に入って、PSA値が226と異常に高いことが判明し、触診結果との総合判断により冒頭の癌宣告となった次第です。
その後、立て続けにCT、MRI、生検、骨シンチを受け、2/3に「前立腺癌、T3b, N1, M0, Gleason Score=5+4=9, Stage D1」と確定しました。おさらいしてみますと、
T3b:原病巣が前立腺被膜を超えて精嚢まで浸潤あり。
N1:所属リンパ節転移あり。
M0:遠隔転移なし。私の場合は骨、内臓とも転移なし。
Gleason Score=5+4=9:悪性度かなり高い。
Stage D1:4段階評価で最も悪いD。最終段階D2の一歩手前。
かなり悪い状態で発見されたということです。全く予想していなかった結果でかなり驚きました。元々は妻、息子、娘の4人家族でしたが、子供2人が家を出て遠地の大学に通い始めて寂しくなったなと感じてから、さほど間を置くことなく癌宣告を受けることとなってしまいました。

がん一万人の声, 大腸がん60代 男性, 家族(妻との時間)

2012(平成24)年1月1日。私は朝一番に家内(肺がん)の病室を訪ねました。そして、二人で病室の窓から、昇る初日の出を眺めました。まだ動き出さない静かな病室で、黙って朝日を眺めていました。その時だけは先の不安も感じない透明な時間が流れていたように思います。
結局、これが二人の最後の正月になってしまいましたが、今では心に残る思い出のひとコマです。


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がん一万人の声, 大腸がん60代 男性, がん手術

2011(平成23)年12月26日のことです。朝食の準備をしようと台所に立ったものの、立っていられないほどの腹痛に襲われました。搬送先の病院での見立ては「おそらく大腸がん」でした。精密検査をしていたら、病院が休みに入ってしまうし、腸閉塞になっているので、「早く切らないと命も危ない」ということでした。

結局、手術は28日の朝から行われました。私の手帳には、「AM6:00浣腸OK」とのみ記されています。麻酔がよく効いて、手術中のことは全く覚えていません。

1月31日に再開されたメモには、「開腹手術、上行結腸を30cm切除、5cmのがん」と記されています。少しですが、リンパ節にも転移があり、ステージはⅢaでした。
29日の午後にトイレまで4回歩きました。30日にはトイレの他に、廊下を少し歩きました。でも、両日とも熱が下がらず、解熱・鎮痛剤の点滴の影響なのか、終日ぼんやりしていました。
31日は元気になってきました。手帳には、「6:30~約500歩 9:45 Drより飲水の許可 10:00~約500歩 13:00~約1000歩 15:30~約1000歩(11Fへ)」とあります(11Fとは11階の肺がんで入院中の家内の病室のことです)。


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がん一万人の声, 大腸がん60代 男性, 妻の肺がん

2011(平成23)年12月31日。手術から3日目。点滴スタンドを支えに時間をかけて病室まで辿りついた私に、家内は、驚きながら満面の笑みで迎えてくれました。
当時、家内は肺がんが脳に転移して、病院で全脳照射を受けるために入院中でした。当初は通院治療だったのですが、世話をする私の事情で緊急入院となっていたのです。私の事情とは、私も「がん」になってしまったということです。

私たちは、二十歳の時から同居を始めましたが、子宝にも恵まれず、親戚づきあいもほとんどなかったため、ずっと二人っきりで暮らしてきました。家内のがんが見つかって1年間ほどは、私は職場の介護休暇等を利用しながら付き添っていましたが、肺がんが縦隔に転移し骨にまで至った段階で(職場にも居づらくなってきていたので)中途退職して、つきっきりで面倒を見るようになりました。

家内はタバコも吸わないのに肺がんになりました。家内の病気の原因は何かわかりませんが、両親の介護というストレスが一番大きな原因と思っています。2人の父親を看取り、2人の痴呆の母の特養入りがやっと決まった矢先に肺がんが見つかりました。私が仕事にかまけて両親の世話を任せっきりにしていた日々が家内の肺がんを大きくしたのだと思いました。そんな気持ちがあって、私は家内に四六時中、金魚のフンみたいについて回っていたのです。


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がん一万人の声70代 女性, 卵巣がん, 心身の支障

私は平成16年(2004年)1月頃、卵巣腫瘍が見つかり市民病院で摘出して…抗がん剤の副作用で便秘や髪の毛が抜け(平成20年頃)苦しみましたが、抗がん剤治療が終わり、6年かけてやっと毛が長くなったが今だ髪の毛は地がすけて見えるが…これも6年掛け養毛剤を使ってのことです。
肺に転移し、肺がんで平成21年(2009年)〜平成25年いっぱい放射線を月何回行きかけました。1回30分です。今の1年に1回は消えたが新しいの(腫瘍)が一つあり、小さいので様子を見ていましたが、此の所少し大きくなっているとの事。今年(平成26年)11月頃また病院に行き、放射線治療をするかどうか先生との話の上になります。
今は少し普通に歩いたり(5分程)、坂をのぼると呼吸困難で苦しくなります(前向きに歩いていますので…年も年ですし無理しないでいます)。別に痛みはありません。家の中位のこと出来ます。
病気にとらわれず、前向きに明るく生きることが大切だと思っています。

がん一万人の声75歳 男性, がん治療, 腎細胞がん

私は41歳の時急性肝炎で倒れ、一年間入院しました。それ以来75歳の今日まで14回入院し、8回手術を受けています。病名も多様で、急性肝炎、慢性肝炎、前立腺肥大、椎間板ヘルニア、左右のそけいヘルニア、消化管出血、そして右腎細胞がん、肝細胞がん3回です。これだけの病気に耐えてこられたのは、妻や家族の支えがあったからだと思います。
がんについては肝炎治療を継続して行う中、定期的に血液検査やCT、MRI検査を行っていましたので、4回とも発見が早く、早期治療が出来ました。がんは、早期発見、早期治療すれば決して怖い病気ではありません。

がん一万人の声75歳 男性, 腎細胞がん

妻は高校の同級生で、20歳で結婚しました。1男2女、孫が7人います。妻には、私の看病、子育てなど大変な苦労をかけてしまいました。私を支えてくれた妻が、私の腎臓がん手術のあと(その後肝細胞がん3回)、もの忘れがはじまり、アルツハイマー型認知症と診断されました。3年前から歩くことも話すこともできなくなりました。現在デイサービスを利用しながら在宅介護をしています。何年続くかわかりませんが、私の体力の続く限り在宅を続けようと思います。それが妻へのお返しです。

がん一万人の声75歳 男性, がん治療、大切なこと, 腎細胞がん

私は病気とは闘わないことにしています。病気も身内だからです。特にがんが見つかった時には「がんよ私を殺すなよ。私が死ねばお前も死ぬのだぞ」と呼びかけています。

がんと生きる日々, 動画, 肺がん食道がん

https://youtu.be/cFNp8AtAjCs

幸田道子さん。毎年検診を受けていたにも関わらず、肺に見つかったのは5cm大のがんでした。その後抗がん剤治療、半年で再発。そして、脳への転移。生きる意欲をなくし、もう終わりに近づいたと思う幸田さんが希望を見出だしたのは、患者会での様々な人との出会いでした。人と語り合い、自らの悩みを打ち明ける事で気持ちが軽くなって行った。そうした気持ちになれたのは、5年10年と前向きに生きて来た人たちの存在です。そして、世話役の一人源靖夫さんにお弁当を作ろうと思い立ちました。肺がん、食道がんを経験し、胃も食道も無く、一人暮らしで食事もままならない源さんに何かしてあげられる事は無いか。「生きていてもらいたい」という想いからでした。人は人と繋がり役割を持つ事で生きる希望に繋がる。幸田さんと源さんのドキュメント。

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がんと生きる日々, 最後の授業, 小児がん, 動画, 直腸がん延哲也さん

https://youtu.be/ojVAu6EGWGQ

教師として忙しい日々を送っていた延哲也さんが大腸がんと診断されたのは38歳の時。手術をしたものの、その後も再発、再再発と次々とがんがみつかりました。手術や放射線、抗がん剤などあらゆる治療を続けていますが、それは同時に副作用など多くの痛みに悩まされる日々でもあります。手術後には腸の活動が戻らず、腸閉塞(イレウス)となり、吐き気や腹痛で食事がとれなくなることもありました。それでも延さんはそうした痛みに耐えながら前向きに治療と向き合っています。なぜなのか?「辛い治療を続けるのは、自分の居場所、学校に戻って教鞭をとるため」だと延さんは云います。副作用や痛みをはじめ、不安にも向き合う緩和ケアも受けながら、50日ぶりの退院を果たした延さん。迎えてくれたのは、黒板に大きく書かれた「おかえり」の文字と、子供たちの笑顔でした。