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がん一万人の声, 咽頭がん舌がん, 70代 男性, 私のできること

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で入院中、私は、不安から、将来を悲観的に考えていました。
しかし退院が近くなった或る日、私は当時の耳鼻科の看護師長さんに「自分の老後が暗くなってしまった」という話をしました。その看護師長さんが、ここにおられるMさんですが、Mさんは「今に元気になりますよ」と、私を励ましてくれました。その話を聞いて、私は一念発起して、Mさんに或る約束をしました。
「この1年間リハビリに全力を挙げて頑張ってみます。1年後ここでおしゃべりしてみます。」という約束をしました。それでだめなら、諦めようと決心しました。
その後、時々自分の情況をMさんに書き送りました。それが「舌切除患者からの便り」というものです。これは今でも、耳鼻科の病棟の本棚に、黒いファイルに綴じて置いてあると思います。最後の頁には、手術後1年を経過した時点での結果を要約してあります。
その約束を実現するために、まず始めたのは、毎晩単語の発音訓練することでした。これが、その単語表です。よく使ったので、よれよれになっています。
最後には、これを整理して「構音機能回復訓練プログラム」と称するものを作って、トレーニングをしました。構音というのは、しゃべることです。現在は、この改訂版を言語聴覚士のA先生が作っておられます。
退院してからは、先ほど申し上げたように、腹話術が役に立つかもしれないというので、腹話術の関係をインターネットで探しました。そして日本腹話術師協会というのがあることをつきとめ、その通信欄に「舌癌患者を指導してくれる人が居ないか」と呼びかけました。そうしたら、日本腹話術協会の理事の方がそれを見て、大阪に在住のプロの腹話術師を教えてくれました。
その人は、川上じゅんという方で、自宅に寄ってもらい話しを聞きました。腹話術そのものは、リハビリに何の役にも立たないことが分かったのですが、そのとき川上じゅんさんが腹話術の訓練書の中から、音声の発生理論の書かれた部分をコピーして、渡してくれました。それが、私が「音声学」に出会った最初でした。
その後、音声の発生理論と言語障害の専門書を梅田の紀伊国屋書店で何度も探し回り、見つけ次第購入し、夢中で勉強しました。20冊くらいあります。
それから、舌癌による障害を書いた専門書の中に「舌接触補助床」というものが紹介されていました。それを口の中に装着すると、発音が良くなるというのです。写真で見ると、総入れ歯のようなものなので、近所の歯医者のところに持って行き、それを作ってくれないかと相談しました。しかし「経験がないので、自分のところでは作れない。大学に行って聞いて来ます。」と断られてしまいました。その後、その歯医者さんの友人で、O歯科大学の口腔外科の講師をしているという先生を呼んでくれて、特別に診察してもらいました。
その先生は「あなたの舌は大きく切られているので、そうしたものを入れても役に立ちませんよ」と言われてしまいました。私は、その言葉に絶望的なものを感じました。
それでも諦め切れずに、インターネットで探し続けました。そのうちに大阪大学の歯学部に顎口腔機能治療部というのがあり、そこで言葉の矯正をやっているということが分かりました。
早速、そこの大学教授にメールを出しました。その結果、外来医長をしている先生を紹介してくれました。そこで作ってもらったものが、この「舌接触補助床」です。これは、試行錯誤で形状を決めます。私の場合は7回目でやっと満足なものが得られました。

この入れ歯は、言葉の矯正だけでなく、食べることにも大変役に立っています。
舌は食べ物を混ぜながら、咀嚼してない部分だけを奥歯の上に載せることをやっています。ところが舌がないと、それが思うように出来ません。当時私の舌は最大でも7mmしか伸びません。この入れ歯がないと、舌のない所に落ち込んだ食べ物を奥歯に運ぶことが出来ません。この入れ歯のお陰で、それを防ぐことが出来ます。それでも食事の度に顔を傾けたり、箸で補助したりして、苦労しています。だから、今でも1回の食事に2~3時間かかっています。
それから退院後は毎晩夜11時ごろに散歩に出て、しゃべる訓練をしました。
うまくしゃべれない単語を出来るだけ大きな声でしゃべるのです。それを他人が聞いたら、変に思われるので、人気のなくなる夜中に練習したのです。つい先日までやり続けていました。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(言葉), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で入院中は、これからもこんな状態が続くのかと、自分の老後の惨めな姿を想像してしまい、落ち込みました。自分の身の上を真剣に心配しました。
心を痛めたことは、3つありました。
一つは「言葉がしゃべれなくなるのではないか?」という不安でした。
二つ目は「流動食しか食べられなくなるのではないか?」という不安でした。
三つ目は「首を固定した姿勢でしか、歩けなくなるのではないか?」という不安でした。
当時は、まだ会社に勤めていましたので、言葉の障害を一番深刻に考えていました。

(1)手術後10日目
手術後初めてしゃべったと。本人はしゃべろうとするのですが、口が思うように動かないのです。録音テープを聞いて、ショックを受けました。深刻に考え始めた理由です。

(2)手術後1ヵ月後(34日目)
相変わらず、しゃべるのは大変なことでした。やっとの思いで声を出しているのですが、多分大方の人は何を言っているのか分からなかったと思います。
でも自分と家内は、そこそこ聞き取れています。

この当時は、舌は一向に動かず、おしゃべりも自由に出来ず、失意のどん底にいました。
それで何人かの看護師さんに、「本当に、しゃべれるようになるだろうか?」と聞いたのですが、殆んどの看護師さんは明確には答えてくれませんでした。
その中で2人の看護師さんの話に勇気付けられました。
一人の人は、「外来の患者さんを見ていると、皆さんかなりしゃべれるようになっていますよ」と話してくれました。
もう一人の人は、「外来に来ていた人の中に腹話術をやっていたという人が居て、その人は術後もしゃべるのが上手だった」と教えてくれました。そのことが退院後、腹話術師を探すキッカケとなりました。
兎に角、もう言葉の障害のことで頭の中が一杯でした。
手術後2ヶ月が経ったとき、私は主治医に言葉の回復について相談しました。しかし「将来再生医療が発達すれば別ですが、舌がないのですから、言葉の回復はありえません」と素っ気ない返事でした。大変なショックでした。
それでも何とか回復の道はないのかと食い下がったら、「病院に言語聴覚士が居るので、その指導を受けられるかどうか聞いてみます。」という返事でした。その結果、今日ここにおられるA先生に言葉の指導を受けることになりました。耳鼻咽喉科の患者では第1号でした。毎週1回のレッスンを受けました。おかしな発音のところを教えてもらい、正しい発音の仕方を教えてもらいました。事前にある程度の知識はありましたが、実際に自分の声を聞いてもらい、おかしな発音を指摘してもらうのは役立ちました。
しゃべる上で一番の障害は、唾液が口の中に止め処なく溜まることでした。舌がないと、唾液を自動的に飲み込む機能がなくなり、唾液が溜まるのです。唾液は、1日2~3リットルも出るそうです。当時は、顎の下に洗面器を抱えて、口元からダラダラとヨダレを垂らしていました。口元を拭くのに使ったティッシュペーパーは、1日あたり5箱にもなりました。

(3)術後半年経過後
これは日本経済新聞の記事を朗読してみました。
五十音で言うと、「イ・キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・イ・リ・イ」の列の音です。
これらは、どうしてもうまく声に出せませんでした。

(4)術後5年半経過後
同じ新聞記事を読んでみました。
自分では100%聴き取れるのですが、初めて聴く人では7割程度しか聞き取れなかったのではないかと思います。でも入院当時に比べると、随分良くなっています。

入院中の多くの患者さんの中には、私と同様に言葉の障害に強い不安を持っておられる方もいるかと思います。私の体験で、その不安も少し解消しましたでしょうか?
舌がん患者の皆さんには「1年後には相当良くなっているので、自信をもってください」と申し上げたいと思います。私の録音テープが何よりの証拠です。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん舌がん, 70代 男性, 心身の支障(嚥下)

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後、結局3ヶ月半入院していましたが、その間に嚥下、つまり食べ物の飲み込みがうまく出来ず、むせてむせて、苦しみました。
当初は、舌とリンパ節を切っただけなのに、なぜミルクが飲めないのか不思議でした。食事に出たパック入りの牛乳を、ストローでいくら吸おうとしても、牛乳が吸い上げられませんでした。ずーと後になって分かったことですが、これはノドの筋肉が腫れていて、筋肉に力が入らないことに原因がありました。
私は入院中に娘が買って来てくれた嚥下の本を読んで、自分なりに色々と訓練をしました。一番大切なことは、弱ったノドの筋肉を強化してやることでした。
 手術後1ヶ月くらいは、身体を起こすことも、横向きになることも、思い通りになりませんでした。これは首を固定されたまま仰向けに寝ていたため、腹筋・背筋がすっかり萎えてしまったのです。
また、毎朝目が覚めると、首が鉄製の首輪で固定されているかのような感じでした。このため首を上下に動かすことが出来ませんでした。歩くときは、5m先を見る姿勢しか取れず、上下左右を見るときは、身体全体を曲げたり、ねじったりしていました。
この首輪による拘束感は、一日中続き、重苦しくて、1年経っても時々「何とかしてくれ!」と絶叫したい衝動に襲われました。
主治医の先生の話では、手術のとき神経に多少触ったためかも知れないということでしたが、同じ理由からでしょうか、入院中は腕や肩が動きませんでした。手を後ろに回すことも、腕を上に挙げることも出来ませんでした。
ですから、手術後1ヶ月経過しても、自分一人ではお風呂に入れませんでした。自分は棒立ち状態のままで、肌着を脱ぐことも浴槽に入ることも、すべて家内に助けてもらいました。
こんな状態ですから、私は退院する日まで、痛いのを我慢しながら、毎日毎日一生懸命腕や首や肩を動かす訓練をしました。この時の経験をまとめて、入院中に「機能訓練マニュアル」を書きました。作成者はナース室になっていますが、ベッドにノートパソコンを持ち込み、私が作ったものです。その後改訂版が作成されているようです。 (「口腔咽頭がん患者会」提供)

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舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後8日目に家内と娘に筆談で、こう告げました。
「こんな苦しみはもう2度としたくない。今度ガンが再発したら、ホスピスに入れてくれ」と伝えました。娘は泣きながら了承してくれました。家内は涙をこらえて、無言のままでした。
娘の看病日誌には、こう書かれていました。
父「もう手術は嫌だ。舌ガンは地獄だから、次のときはホスピスに入れてくれ」
S子・父泣く。(S子というのは娘の名前です。)
「了解してくれるな!S子。今までの人生最高に満足している」(これは私の言葉です。)
娘が付けた看病日誌は、その後家内が続け、後半は自分の入院日記として書き続けました。今となると、とても貴重なものです。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, がん治療, 舌がん

今から5年半前に舌癌のために、舌の3分の2と首の両側のリンパ節をすべて切除しました。いわゆる舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術との両方を受けました。約11時間の手術でした。舌については、太ももから採った皮弁で再建しております。奥歯は上下ともありません。
皆さんも、手術後の痛みがどれほどのものかは経験済みですが、私の場合も手術後の1週間は地獄の日々でした。この1週間は、ただただ激痛をこらえる事、痛みに耐える事、それしか考えていませんでした。それが1日の時間のすべてでした。生活のすべてでした。胸から頭のてっぺんまで、猛烈に腫れあがって、その痛みと頭痛に苦しみました。
毎日看護師さんが顔を拭くようにと熱いタオルを差し入れてくれるのですが、痛くて顔を拭くことすら出来ませんでした。それができるようになったのは、手術後1ヶ月経ってからのことでした。
当時は38度以上の熱で灼熱地獄にでも居るような苦しさで、全身汗でびっしょりでした。それで顔をウチワであおいでもらったら、髪の毛がかすかに動くだけで、痛くて耐えられないほどでした。
舌は2~3倍に腫れ上がり、3分の1しかないのに、口からあふれんばかりでした。鼻に差した管が動いたときの脳に走る痛烈な激痛や、またノドのカニューレのせいで、年中セキが止まらず、その都度胸に熱い激痛が走ったことを今でも忘れることが出来ません。
いつも高熱と頭痛にうなされていて、よく幻覚を見ました。目をつぶると、周りにいる人の声は聞こえるのですが、奇妙なことに天井からスルスルとカーテンが降りて来たり、自分がゴミの山の中で寝ていたり、天井が砂漠に変わって、そこに砂嵐が吹いているのです。自分がそんな妙な環境に居ることを不思議とも思わず、それが現実の世界だと信じていました。今考えると、明らかに幻覚でした。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声30代 女性, スキルス胃がん, 私のできること

私は何度も死にたいと思いました。肉体的に辛い中、心もふさがって、なぜこんな思いをしてまで生きている必要があるのだろうと思いました。そんなときに先生方や、その他にも看護師さん、家族や周りの方々が、わたしが回復するために精一杯のことをして下さいました。その時々に私は救われ、癒され、生きる力を頂いたのだと思います。
体重減少と脱毛で変わり果てた自分になっていたころ、あるボランティア団体の方が縫い合わせて帽子の形にしたバンダナと折鶴をくださったことがあり、勇気づけられたことがあります。このことがきっかけで、こんな私でも何か役に立つ事ができればと院内ボランティアに参加し、そのご縁で患者会とも出会うことができました。
私は現在前向きに生きていこうと思っています。私の手術前の状態では、術後5年間の生存確率は5割を切るということです。今で丁度術後3年経ちますが、今のところ再発はありません。ただ副作用の色素沈着や涙道閉鎖、ダンピングは常時起こり、抗がん剤が終わって(あんなにつらい抗がん剤も、やめる時はものすごく不安になりました)8カ月が過ぎましたが、今も抜けきっていないのかしんどくなることがよくあります。
でもこのような病気になったからこそ感じられたこと、出会えた人々、そして何よりも今生きていられるということの幸せ、喜びと感謝は、言い表すことのできないものです。
もしも私と似た境遇の方がこの文章を読んで下さることがあれば、つらくても前向きに生きて欲しい。たくさんの喜びもあるということをお伝えしたいです。

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術後数週間後から、がんの再発防止のため、退院と同時位に抗がん剤のTS-1を服用することになりました。そしてそれらの副作用は私にとって忘れることができない苦しいものでした。先ず飲み始めてすぐに、横になっていても目がぐるぐる回っているような感じに襲われ、しかもこの副作用は服用し始めてその後にどんどんきつくなっていきました。また併用して2度打った点滴(抗がん剤のシスプラチン)の副作用では食欲が全くなくなり、水分さえ取れなくなってしまいました。
やっとの思いで食べ物や飲み物を口にしても直ぐ下痢になってしまったり、それによって体力が消耗してしまいます。その結果またエネルギーが必要になるという悪循環になってしまうのです。
この点滴のための入院予定期間は一週間程度だったのですが、栄養を補充するために点滴が外せず結局一カ月ほどにもなりました。そして、TS-1服用だけの状態が続いて半年ほどたった時、今度は検査で腫瘍マーカーの数字が上がってきたことから、新しくタキソールという点滴もTS-1と併用することとなりました。この点滴をする前、医師から脱毛の副作用を告げられていましたが、点滴が進むとその告知通りに私の髪やまゆ毛、まつ毛など全てが抜けていきました。
最初に2度打った点滴で15キロほども痩せ、脱毛してしまった自分の姿を鏡で見た時は、本当に言葉がでませんでした。タキソールが終わった後もTS-1服用は続けられ、普通は1年とされているバックアップの抗がん剤を2年に延長されました。その間、このような顕著な副作用の他にも、常に感じていたのは100Kgの人を背負っているような倦怠感です。何をするにも本当に大仕事でした。

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手術は成功したのですが、私の場合はそこからがとても大変でした。今も、そしてこれからも苦しみが全て消えることはなく、これからの人生で、私はずっと自分の体や心と向き合って生きていくことになりました。ここでは、そのことについて触れたいと思います。
手術が終わった直後、ドレーンや管がまだ体に通っている状態から、回復を目指して動いたり歩いたりの訓練が始まりました。この時は今までの人生で味わったことのない激痛が続きました。私は自分のことを痛みに強いほうだと思っていたのですが、痛み止めの薬をおかわりするように続けて飲んでいました。
また自分の臓器の一部がなくなると、寝返りを打つだけでも体の中で内臓がこれまでにない動きをしているようですごく痛く、脈拍も上昇し、心が不安になりました。
のちに食事の許可がおりましたが、胃が失くなった状態でものを食べることで「ダンピング」という症状がでます。腸が胃を通さず急激に栄養を吸収するため、まるで長い距離を全速力で走った後のような動悸や苦しみがあり、一度にたくさんの量を食べないようにしたり、ゆっくり食べたりと気をつけたりしますが、それでも体調の悪い日は症状が出やすかったりして、3年経った今でも私はこれに悩まされています。

→「パラメディカ」胃がん闘病記 紹介

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私は今からちょうど三年ほど前、胃に膨満感を頻繁に感じていたことから胃カメラを飲み、胃がんであることが発覚しました。胃上部スキルスの4型、ステージがⅢCというものでした。
お医者様からこのことを告げられ、あまりに受け入れがたい大きな現実に直面するなかで、私はショックというよりも、なぜか普通に受け止めていました。なんだかふわふわと現実離れした空間の中にいるようでした。手術前の検査を終えた時点では、開腹手術以外の手段はなく、それさえも転移などがあればできなくなるという可能性がありました。いきなり知ったこのような現実を私も家族もただただ受け止めるしかなく、手術が行われました。
幸い先生が手を尽くして下さり、8時間に及んだ手術は輸血もすることなく成功しました。その内容は胃を全摘出、脾臓も取り、十二指腸を閉じて食道と小腸をつなぐというものです。また33個のリンパを取ったのですが、そのうち9個は転移していたということでした。

→「パラメディカ」胃がん闘病記 紹介

がん一万人の声, 乳がん40代 女性, 乳がん

元気が一番ですが、元気ではなくても明るく過ごしています。夏休みの目標は娘と遊ぶこと。一年生になった娘とプール、遊園地、バーベキュー、花火、お菓子作り。家族や友達に助けられながら、沢山遊びました。子供のうちは、娘のそばにいたい。大きくなってきたら少しずつ仕事もしていきたい。虎視眈々とやりたいことを実行していこうと思っています。夏休み最後の今日、娘の前歯の乳歯が抜けました。大きくなっていく彼女を長く見守りたいなと思っています。