藤田潤吉さんが胆のうがんと診断されたのは2014年の秋。がんは胆のうから肝臓にまで転移し、既に手術ができないほど進行した状態でした。抗がん剤も効果がでず、副作用が強くあらわれたため治療は断念。医師からは余命半年という厳しい現実を突きつけられました。潤吉さんにとってこの余命告知は、“いま生きていること自体を否定されたような感覚”に陥り、“自分はこの世の中に存在してはいけないのではないか”と思い詰めるほど辛い出来事でした。そうした鬱々とした日々が続くなか、潤吉さんは一つの決意を固めていきます。それは、10年前から趣味の域を超えるほどに熱中していたチンドンの演奏を再開したいという思いでした。“いま自分がやりたいこと”…それにまっすぐ向き合っていきたい…それが潤吉さんが悩み抜き導き出した答えでした。すぐに病院を退院し、在宅緩和ケアを受けながらチンドンの練習を再開。次第に体力も回復し、地元の祭りなどででチンドンをお披露目機会も増えていきました。「チンドンを見た人はみんな笑顔になる、その笑顔を見ることが自分の生きる力につながっている」と潤吉さんは云います。がんは身の内にあれど、自分らしい人生を送ることはできる!…潤吉さんが奏でるチンドンのメロディがそれを物語っています。
今できること、生きていこう 〜宮﨑記代子さんのことづて〜
宮﨑記代子さんは天草市に生まれ、全国各地の病院や診療所で看護師として勤務をしてきました。2002年にご主人の修さんが若年認知症と診断され、自らの介護経験から「天草認知症家族の会」を立ち上げました。地域の認知症を理解してもらおうと介護と講演活動を両立する傍ら、近所の保育園の子どもたちに折り紙を教え、日々ご主人と歩く山路や暮らしの中の幸せを絵手紙に綴ってきました。
2013年、その記代子さんががんに!子宮体がん、がん肉腫でした。食事も摂れない。とんでもないスピードでがん細胞が増えている。治療法はないという極限の中で、記代子さんはひたすら夫、修さんへまた周囲の人々への感謝の言葉を失わなかった。「苦しみも悲しみも心の宝になる」と生きることの大切さを訴え続けた記代子さんの心の「ことづて」の感動作品。2014年10月死去。
「ゆらり、ゆらり、しあわせ色よ、ゆらり、ゆらり、わたしの幸せ色のアプリコットよ」
今でも彼女の絵手紙から歌声が聴こえてきます。
自分のためではなく誰かのために!
幸田道子さん。毎年検診を受けていたにも関わらず、肺に見つかったのは5cm大のがんでした。その後抗がん剤治療、半年で再発。そして、脳への転移。生きる意欲をなくし、もう終わりに近づいたと思う幸田さんが希望を見出だしたのは、患者会での様々な人との出会いでした。人と語り合い、自らの悩みを打ち明ける事で気持ちが軽くなって行った。そうした気持ちになれたのは、5年10年と前向きに生きて来た人たちの存在です。そして、世話役の一人源靖夫さんにお弁当を作ろうと思い立ちました。肺がん、食道がんを経験し、胃も食道も無く、一人暮らしで食事もままならない源さんに何かしてあげられる事は無いか。「生きていてもらいたい」という想いからでした。人は人と繋がり役割を持つ事で生きる希望に繋がる。幸田さんと源さんのドキュメント。
→「パラメディカ」肺がん闘病記 紹介
抗がん剤治療の日々 患者に向き合う日々
病院の心理療法士として、患者さんの相談に応じる小島三惠子さん。2012年、自らの身にがんがあることを知りました。父親をがんで亡くしていることもあり、父の闘病生活を通して“がんは激しい痛みや苦痛をともない、治らない病”という認識をもっていました。実際に抗がん剤治療を開始してみると、手のしびれや声が出にくくなるなど様々な症状に悩まされていますが、今も小島さんは仕事を続けています。それが可能になった訳は、自らの病を公表したことにあります。辛い時には助けを求めるようにしてみると、そこには多くの“支援の輪”、“人の輪”が生まれたといいます。ほかの患者さんのために力を尽くせる今が、かけがえのないものだと実感する小島さんです。
高校教師をあきらめない! 2013
教師として忙しい日々を送っていた延哲也さんが大腸がんと診断されたのは38歳の時。手術をしたものの、その後も再発、再再発と次々とがんがみつかりました。手術や放射線、抗がん剤などあらゆる治療を続けていますが、それは同時に副作用など多くの痛みに悩まされる日々でもあります。手術後には腸の活動が戻らず、腸閉塞(イレウス)となり、吐き気や腹痛で食事がとれなくなることもありました。それでも延さんはそうした痛みに耐えながら前向きに治療と向き合っています。なぜなのか?「辛い治療を続けるのは、自分の居場所、学校に戻って教鞭をとるため」だと延さんは云います。副作用や痛みをはじめ、不安にも向き合う緩和ケアも受けながら、50日ぶりの退院を果たした延さん。迎えてくれたのは、黒板に大きく書かれた「おかえり」の文字と、子供たちの笑顔でした。
出張デイホスピスが希望をつないでくれた〜原村光一さん〜
6年前に甲状腺がんと宣告された、原村光一さん(64歳)は、寄る辺無き人生に絶望していたが、福岡県行橋市のクリニックが開くデイホスピスに行き何十年ぶりかにギターを弾く事を始めた。人との繋がりは生きる希望になり、感謝の気持ちとともに死ぬ事の恐怖さえ遠ざけてくれる。原村さんのドキュメント。