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がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(言葉), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で入院中は、これからもこんな状態が続くのかと、自分の老後の惨めな姿を想像してしまい、落ち込みました。自分の身の上を真剣に心配しました。
心を痛めたことは、3つありました。
一つは「言葉がしゃべれなくなるのではないか?」という不安でした。
二つ目は「流動食しか食べられなくなるのではないか?」という不安でした。
三つ目は「首を固定した姿勢でしか、歩けなくなるのではないか?」という不安でした。
当時は、まだ会社に勤めていましたので、言葉の障害を一番深刻に考えていました。

(1)手術後10日目
手術後初めてしゃべったと。本人はしゃべろうとするのですが、口が思うように動かないのです。録音テープを聞いて、ショックを受けました。深刻に考え始めた理由です。

(2)手術後1ヵ月後(34日目)
相変わらず、しゃべるのは大変なことでした。やっとの思いで声を出しているのですが、多分大方の人は何を言っているのか分からなかったと思います。
でも自分と家内は、そこそこ聞き取れています。

この当時は、舌は一向に動かず、おしゃべりも自由に出来ず、失意のどん底にいました。
それで何人かの看護師さんに、「本当に、しゃべれるようになるだろうか?」と聞いたのですが、殆んどの看護師さんは明確には答えてくれませんでした。
その中で2人の看護師さんの話に勇気付けられました。
一人の人は、「外来の患者さんを見ていると、皆さんかなりしゃべれるようになっていますよ」と話してくれました。
もう一人の人は、「外来に来ていた人の中に腹話術をやっていたという人が居て、その人は術後もしゃべるのが上手だった」と教えてくれました。そのことが退院後、腹話術師を探すキッカケとなりました。
兎に角、もう言葉の障害のことで頭の中が一杯でした。
手術後2ヶ月が経ったとき、私は主治医に言葉の回復について相談しました。しかし「将来再生医療が発達すれば別ですが、舌がないのですから、言葉の回復はありえません」と素っ気ない返事でした。大変なショックでした。
それでも何とか回復の道はないのかと食い下がったら、「病院に言語聴覚士が居るので、その指導を受けられるかどうか聞いてみます。」という返事でした。その結果、今日ここにおられるA先生に言葉の指導を受けることになりました。耳鼻咽喉科の患者では第1号でした。毎週1回のレッスンを受けました。おかしな発音のところを教えてもらい、正しい発音の仕方を教えてもらいました。事前にある程度の知識はありましたが、実際に自分の声を聞いてもらい、おかしな発音を指摘してもらうのは役立ちました。
しゃべる上で一番の障害は、唾液が口の中に止め処なく溜まることでした。舌がないと、唾液を自動的に飲み込む機能がなくなり、唾液が溜まるのです。唾液は、1日2~3リットルも出るそうです。当時は、顎の下に洗面器を抱えて、口元からダラダラとヨダレを垂らしていました。口元を拭くのに使ったティッシュペーパーは、1日あたり5箱にもなりました。

(3)術後半年経過後
これは日本経済新聞の記事を朗読してみました。
五十音で言うと、「イ・キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・イ・リ・イ」の列の音です。
これらは、どうしてもうまく声に出せませんでした。

(4)術後5年半経過後
同じ新聞記事を読んでみました。
自分では100%聴き取れるのですが、初めて聴く人では7割程度しか聞き取れなかったのではないかと思います。でも入院当時に比べると、随分良くなっています。

入院中の多くの患者さんの中には、私と同様に言葉の障害に強い不安を持っておられる方もいるかと思います。私の体験で、その不安も少し解消しましたでしょうか?
舌がん患者の皆さんには「1年後には相当良くなっているので、自信をもってください」と申し上げたいと思います。私の録音テープが何よりの証拠です。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(嚥下), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後、結局3ヶ月半入院していましたが、その間に嚥下、つまり食べ物の飲み込みがうまく出来ず、むせてむせて、苦しみました。
当初は、舌とリンパ節を切っただけなのに、なぜミルクが飲めないのか不思議でした。食事に出たパック入りの牛乳を、ストローでいくら吸おうとしても、牛乳が吸い上げられませんでした。ずーと後になって分かったことですが、これはノドの筋肉が腫れていて、筋肉に力が入らないことに原因がありました。
私は入院中に娘が買って来てくれた嚥下の本を読んで、自分なりに色々と訓練をしました。一番大切なことは、弱ったノドの筋肉を強化してやることでした。
 手術後1ヶ月くらいは、身体を起こすことも、横向きになることも、思い通りになりませんでした。これは首を固定されたまま仰向けに寝ていたため、腹筋・背筋がすっかり萎えてしまったのです。
また、毎朝目が覚めると、首が鉄製の首輪で固定されているかのような感じでした。このため首を上下に動かすことが出来ませんでした。歩くときは、5m先を見る姿勢しか取れず、上下左右を見るときは、身体全体を曲げたり、ねじったりしていました。
この首輪による拘束感は、一日中続き、重苦しくて、1年経っても時々「何とかしてくれ!」と絶叫したい衝動に襲われました。
主治医の先生の話では、手術のとき神経に多少触ったためかも知れないということでしたが、同じ理由からでしょうか、入院中は腕や肩が動きませんでした。手を後ろに回すことも、腕を上に挙げることも出来ませんでした。
ですから、手術後1ヶ月経過しても、自分一人ではお風呂に入れませんでした。自分は棒立ち状態のままで、肌着を脱ぐことも浴槽に入ることも、すべて家内に助けてもらいました。
こんな状態ですから、私は退院する日まで、痛いのを我慢しながら、毎日毎日一生懸命腕や首や肩を動かす訓練をしました。この時の経験をまとめて、入院中に「機能訓練マニュアル」を書きました。作成者はナース室になっていますが、ベッドにノートパソコンを持ち込み、私が作ったものです。その後改訂版が作成されているようです。 (「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後8日目に家内と娘に筆談で、こう告げました。
「こんな苦しみはもう2度としたくない。今度ガンが再発したら、ホスピスに入れてくれ」と伝えました。娘は泣きながら了承してくれました。家内は涙をこらえて、無言のままでした。
娘の看病日誌には、こう書かれていました。
父「もう手術は嫌だ。舌ガンは地獄だから、次のときはホスピスに入れてくれ」
S子・父泣く。(S子というのは娘の名前です。)
「了解してくれるな!S子。今までの人生最高に満足している」(これは私の言葉です。)
娘が付けた看病日誌は、その後家内が続け、後半は自分の入院日記として書き続けました。今となると、とても貴重なものです。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, がん治療, 舌がん

今から5年半前に舌癌のために、舌の3分の2と首の両側のリンパ節をすべて切除しました。いわゆる舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術との両方を受けました。約11時間の手術でした。舌については、太ももから採った皮弁で再建しております。奥歯は上下ともありません。
皆さんも、手術後の痛みがどれほどのものかは経験済みですが、私の場合も手術後の1週間は地獄の日々でした。この1週間は、ただただ激痛をこらえる事、痛みに耐える事、それしか考えていませんでした。それが1日の時間のすべてでした。生活のすべてでした。胸から頭のてっぺんまで、猛烈に腫れあがって、その痛みと頭痛に苦しみました。
毎日看護師さんが顔を拭くようにと熱いタオルを差し入れてくれるのですが、痛くて顔を拭くことすら出来ませんでした。それができるようになったのは、手術後1ヶ月経ってからのことでした。
当時は38度以上の熱で灼熱地獄にでも居るような苦しさで、全身汗でびっしょりでした。それで顔をウチワであおいでもらったら、髪の毛がかすかに動くだけで、痛くて耐えられないほどでした。
舌は2~3倍に腫れ上がり、3分の1しかないのに、口からあふれんばかりでした。鼻に差した管が動いたときの脳に走る痛烈な激痛や、またノドのカニューレのせいで、年中セキが止まらず、その都度胸に熱い激痛が走ったことを今でも忘れることが出来ません。
いつも高熱と頭痛にうなされていて、よく幻覚を見ました。目をつぶると、周りにいる人の声は聞こえるのですが、奇妙なことに天井からスルスルとカーテンが降りて来たり、自分がゴミの山の中で寝ていたり、天井が砂漠に変わって、そこに砂嵐が吹いているのです。自分がそんな妙な環境に居ることを不思議とも思わず、それが現実の世界だと信じていました。今考えると、明らかに幻覚でした。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声30代 女性, スキルス胃がん, 私のできること

私は何度も死にたいと思いました。肉体的に辛い中、心もふさがって、なぜこんな思いをしてまで生きている必要があるのだろうと思いました。そんなときに先生方や、その他にも看護師さん、家族や周りの方々が、わたしが回復するために精一杯のことをして下さいました。その時々に私は救われ、癒され、生きる力を頂いたのだと思います。
体重減少と脱毛で変わり果てた自分になっていたころ、あるボランティア団体の方が縫い合わせて帽子の形にしたバンダナと折鶴をくださったことがあり、勇気づけられたことがあります。このことがきっかけで、こんな私でも何か役に立つ事ができればと院内ボランティアに参加し、そのご縁で患者会とも出会うことができました。
私は現在前向きに生きていこうと思っています。私の手術前の状態では、術後5年間の生存確率は5割を切るということです。今で丁度術後3年経ちますが、今のところ再発はありません。ただ副作用の色素沈着や涙道閉鎖、ダンピングは常時起こり、抗がん剤が終わって(あんなにつらい抗がん剤も、やめる時はものすごく不安になりました)8カ月が過ぎましたが、今も抜けきっていないのかしんどくなることがよくあります。
でもこのような病気になったからこそ感じられたこと、出会えた人々、そして何よりも今生きていられるということの幸せ、喜びと感謝は、言い表すことのできないものです。
もしも私と似た境遇の方がこの文章を読んで下さることがあれば、つらくても前向きに生きて欲しい。たくさんの喜びもあるということをお伝えしたいです。

がん一万人の声30代 女性, スキルス胃がん, 抗がん剤の副作用

術後数週間後から、がんの再発防止のため、退院と同時位に抗がん剤のTS-1を服用することになりました。そしてそれらの副作用は私にとって忘れることができない苦しいものでした。先ず飲み始めてすぐに、横になっていても目がぐるぐる回っているような感じに襲われ、しかもこの副作用は服用し始めてその後にどんどんきつくなっていきました。また併用して2度打った点滴(抗がん剤のシスプラチン)の副作用では食欲が全くなくなり、水分さえ取れなくなってしまいました。
やっとの思いで食べ物や飲み物を口にしても直ぐ下痢になってしまったり、それによって体力が消耗してしまいます。その結果またエネルギーが必要になるという悪循環になってしまうのです。
この点滴のための入院予定期間は一週間程度だったのですが、栄養を補充するために点滴が外せず結局一カ月ほどにもなりました。そして、TS-1服用だけの状態が続いて半年ほどたった時、今度は検査で腫瘍マーカーの数字が上がってきたことから、新しくタキソールという点滴もTS-1と併用することとなりました。この点滴をする前、医師から脱毛の副作用を告げられていましたが、点滴が進むとその告知通りに私の髪やまゆ毛、まつ毛など全てが抜けていきました。
最初に2度打った点滴で15キロほども痩せ、脱毛してしまった自分の姿を鏡で見た時は、本当に言葉がでませんでした。タキソールが終わった後もTS-1服用は続けられ、普通は1年とされているバックアップの抗がん剤を2年に延長されました。その間、このような顕著な副作用の他にも、常に感じていたのは100Kgの人を背負っているような倦怠感です。何をするにも本当に大仕事でした。

がん一万人の声40代 女性(家族), 腎盂ガン

主人から「おしっこが赤ワインみたいに赤い」と言われ、びっくりしてすぐ泌尿器科の病院を探して行った。脳裏に浮かんだ言葉はガン・・・。父がガンで亡くなっているので、とにかく早く病気を確かめたかった。
最初に行った病院では結石ではないか、ということで、とりあえずほっとした。年末だったので詳しい検査、結果は年明けということで、正月を過ごした。
年が明けて病院に行くと先生が険しい顔をしている。「紹介状を書くので大きい病院で診てもらったほうがいい。」その言葉を聞いてまた頭の中ではガンの文字がグルグル回っていた。
すぐに大学病院に行き、検査の予約、検査入院・・・とバタバタしたが、不謹慎にも考えてしまうのはもしもの場合。不安で不安で仕方がなかった。
主人はその大学病院ではなく、近所の病院で手術をし、今は経過観察だけですが、この経験を元にボランティアを始め、毎日忙しそうです。

がん一万人の声50代 女性, 子宮頸がん, 私のできること

がんの告知をされた時、私は会社を営んでいました。
その為、自分自身の体を一番に考える事が出来ず、治療より仕事を優先してしまい、病気が進んでしまっていました。
中小企業では、社長や役員が必死になって働かなくては会社は成り立って行かず、「病気イコール廃業する」と言う人は少なく無いと思います。私自身も術後しばらくの間頑張っていましたが、無理が出来ず、結果廃業することになり、経済的に苦しくなりました。
がんになって生活スタイルを変えなくてはいけない人がたくさんいると思いますが、何とか生活スタイルを変えなくても良い様、世の中の理解や治療法が出る事を期待したい。
今はがんになった事で何が出来るか模索中です。

がん一万人の声40代 女性(家族), 腎臓がん

ある土曜日の朝、駅のホームで電車を待っている時に、実家の母から携帯電話の着信があった。そこで父が癌だと聞かされた。
腎臓癌だと聞かされたのは前日で、父と母の二人で話を聞き、昨夜はふたりして泣き明かしたと言っていた。
とりあえず用事を済ませ、すぐ看護師の友人に電話をした。今後のことを相談するためだ。ちょうどホスピス開設のニュースを見た頃だったので、ホスピスの事も聞いてみたが、費用の面、ベッドの数の面で入れないだろうと言われた。その時に自宅介護という方法も教えてもらった。
今では在宅介護も当たり前になっているが、当時はまだ珍しかったようで、往診してくれる先生を探す所から始まった。病院のホームページを調べたり、ホームページが無いところは電話をして聞いたり、見つかったと思えば癌患者ダメだと断られたりと大変だった。
他にも市役所に行き、どういうサービスが受けられるか聞いて、ケアマネを探したり、訪問介護ステーションに依頼に行ったり、介護ベッドを借りられる所を探したり、とにかく老人介護の為のものはたくさんあったが、がん患者のための仕組みが点々とあるだけで線で結ばなくてはいけなかった。
車椅子でも生活できるよう家の中をリフォームし、長女の私は母と介護するために実家へ戻り、派遣で勤めていた会社も辞めた。
父が退院する時は独りで歩くことが出来ない状態だったが、家に連れて帰ってきたら、独りで歩けるようにもなったし、食事もちゃんと食べられるようになった。
それから約2ヶ月父と一緒に生活できた。最期を看取ったのも自宅。あとで聞いた話だが、父が退院するときあと2週間もたないと医師間で引き継ぎがあったようで、それが約2ヶ月持ったから先生も感心していた。
父が亡くなってからしばらくは、まだいっぱいやれることがあったのではないか。他にいい方法があったのではないかと後悔していたが、「当時でのやれることは精一杯やった。」「どんなにやっても人間後悔するよ。」と言われて、やっと心の整理が出来た感じだ。
当時まだ自宅介護は介護保険も使えず、かなり出費があったが、自宅で介護できて本当によかったと思う。

がん一万人の声, 肺がん40代 女性(家族), 認知症の夫が肺がんになった時

祖父が癌になったのは祖父が84歳の2001年初秋の事でした。祖父がオシッコの出が悪いというので、当時通っていた病院で検査してもらいました。今はどうか分かりませんが、当時はドラマのように病院から電話がかかってきました。「患者さんのことでご家族に話したいことがあるけど、病院に来れる日を教えてほしい」と。もうここでピンっときちゃって、先生の話を聞く前に「ガンだったんですか?」って聞いちゃったくらいでした。
結局、前立腺がんが元の肺がんだったのですが、祖父も歳だしそんなに進行も早くないだろうということで告知しない方針で、あとは通院しながら様子を見ようということになりました。
祖父が退院する予定日の少し前、父が大動脈解離で倒れ、祖父が家に帰ることができなくなってしまいました。母と私は毎日2つの病院にお見舞いに行く日々が続きストレスで私も入院してしまいました。
幸いにも父は一命を取り留めましたが、祖父の癌は進行が早くあっという間に脳まで転移してしまいました。
父のことで満足に看病ができないまま、翌年の2月、北海道出身の祖父の為にか、名古屋で珍しく積雪があった朝、病院からの電話で危篤だと知らされ、タイヤにチェーンを巻く時間もなく慌てて祖母と母と病院に駆けつけました。ギリギリ最期を看取れましたが、祖父の子供の叔父たちは、間に合いませんでした。
祖父の13回忌が終わった今でも、満足に看病できなかったこと、きちんと最期のお別れができなかったこと、とても心残りです。

→「パラメディカ」肺がん闘病記 紹介