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パラメディカ Pick Up! 闘病記 〜大腸がん

パラメディカ
故星野史雄さんの闘病記古書店「パラメディカ」に 遺された7000冊の闘病記…
ホシノDB
故星野史雄さんの闘病記リストを整理し
順次公開しています

わたしのがんnet スタッフが、大腸がん闘病記をご紹介します。

ひとりを生きる

重兼芳子
1993.12.9
講談社
  • 大腸がん
  • 小説家

著者の重兼芳子さん。専業主婦、子育てを終えてからの小説家デビューも、52歳にして芥川賞を受賞した実力派。およそ、50編ほどの短いエッセーが生老病死の核心を説いている。

短評

はじめから「夫が逝った日」とある。芳子さんの大手術から3日後、彼女は何本ものチューブで繋がれているベットの上で夫の死を知らされる。

自分が入院するまで夫は元気だった。信じられない。夫を送る儀式があるのは解っていても動けない、動きたくない・・・都合の良いことに症状が悪くなっていく。大腸と肝臓の半分が、がんとして摘出されていたのだ。

それから、二年半。芳子さんは“人生の終末期”はこうして過ごしたいを見事に生き抜いた。そこでのエッセイ集で作品として編んだのがこの「ひとりを生きる」である。

生きてゆくということは、死という消滅へ向かって時を刻むということだから、不安と孤独と寂しさは、人間存在の根底にいつも通奏低音のように鳴り続けている。不安である方が、むしろ人間として正しい在り方なのかもしれない。

つづいて夫との関係については離婚しなかったのは、夫の品性が信頼できたからだ。品性とは人間にもとから備わった性格の一つだろうけれど、他者の欠点を誹謗しないことである。私は健常と障害の境界線すれすれ程度の障害を持って生まれた。

両親は私をどうしても健常者の領域に入れたくて常に叱咤激励した。夫は私の障害をまったく意に介さなかった。妻の障害など取るに足りないという夫の態度によって、私の屈折した思いはほぐされてゆき、バランスを恢復した。

 夫婦、家族、医療者への信頼・・・一つ一つが響いてきては再読・熟読への興味が湧いてきた。 「あとがきにかえて」を娘さんが筆を執っている。これがまた素晴らしい。

 重兼芳子さん、享年66歳。

彼女がどんな家族を持ち、生きて、亡くなっていったか。娘さんのあとがきが、そのままを表現し切っている。

2022年7月 読了 Y

 がん告知の果てに Xからのプレゼント

はまの鶴子 著
東京図書出版会
2006.4
  • 大腸がん
  • 看護師

貪欲に生きて燃え尽きたいと願うように心が傾いた。そういった意味でがんは死ではなく、いかに貪欲に生きるかという価値観みたいなものを持つようになるきっかけだった。癌だけではない、どんな病気にかかろうと貪欲に生きてこそ人の生命のもつ尊さが生まれるのではなかろうか。

短評

2005年2月、著者はもうすぐ定年を迎える看護師。雇用主が自分を拒否するまでは働き続けること、年金など老後の設計を想定していたそんな時がんを発症する。

がんを「奴」と呼び、その後「X」と名付け、Xを抜かりのない殺害方法で抹消しなければならないという体内の異物と闘うような姿勢で治療を受ける。

Xがくれた時間があるからこそ大切な時間を無意味に過ごすことがつまらないと実感した著者は
1日を100日にしてでも貪欲に生きて燃え尽きたいと願うように心が傾く。

Xを知る前の生きる無意味から、生きることの意味を知ることができたから貪欲に生きてこそ生命の持つ尊さが生まれたのでは。

職場では見慣れた股下の割れた検査着をいざ自分が着てみると羞恥めいた気持ちになったり、元気な時には「お金より病気が先でしょ」と言っていた言葉がこれから自分にのしかかる医療費の負担額に、なんといい加減な言葉だったかと。

看護師から患者立場になって気付いた事、発病から抗がん剤治療最終日までの半年間の闘病記録。

2021年8月30日 読了 スタッフH


走って治すぞ、ガン闘病。

山本悦秀著
徳間書店
2014.1
  • 大腸がん
  • 医者
  • 人口肛門

大学教授60歳、突然のがん宣告。 そして、人工肛門。それでも走る

短評

39歳の時に始めたマラソンが「わが道」と思うほどのめり込んで20年。

2005年59歳の時、ロードレースの成績が目に見えて悪くなり走り終えた後の爽快感がなくなっていく。その年の8月体調不良ながら毎年恒例の家族との海外旅行へ行き、なんとか帰国。

成田空港から羽田空港、そこから小松空港で金沢に戻る予定だったがどうにも動けない。2人の娘たちを東京の大学に通わせるために建てた東京の家へ向かいそれぞれ医師となった娘たちに連絡とり、医師の夫たちも駆けつけてくれて点滴を受ける。

いっときは快方に向かったと感じたが、翌日、嘔吐を繰り返し娘たちの母校である大学病院の救急部で検査を受ける。結果、大腸がんと診断を受けるが重い腰の原因は体調の悪さだけではない。

著者は口腔外科医、金沢大学医学部教授であるた他大学病院で治療、ましてや手術を受けるわけにはいかないという立場上の問題に突き当たり、決死の移動で金沢に戻った時には「これで死んでも悔いはない」と本気で思う。

3度の手術を経験し手術の間にもマラソンを続け、完走したタイムが細かく記録されており
自分の体調を振り返る基準となっているのがランナーらしい。

定年退職を前にしたある日、術後3年経過し、仮設のストーマから本来の1肛門へ戻る4度目の手術を覚悟はできていたが、主治医の所見ではストーマ(人工肛門)が残存している腸管の吻合不全による腹膜炎や敗血症などの問題で吻合が難しいと意外な診断結果だった。生涯ストーマという現実に対応するのは困難な状況でありながら著者は発病から5年間という時間の中でゆっくりと少しずつ受け入れていった。

2012年オストミー協会に入会し、日々の悩み、同じ悩みを持つ者同士、仲間との交流がいかに大切か。

「ストーマやオストメイトという言葉が遠慮なく語られるようになれば当事者は障害や悪しき恥の文化の垣根を超えてもっと生きやすいと感じるようになるはずだ。その意味でもわたしは晒し者になりたいと思う次第だ。」と医療に携わる立場からの言葉とは大きく変化し、患者・オストメイトとしての強い意志が伝わる一冊である。

2021年8月30日 読了 スタッフH


故星野史雄さんの闘病記古書店「パラメディカ」に 遺された7000冊の闘病記は、星野さんの思いを受け継ぎ、私設闘病記図書館パラメディカが伊豆高原に開館しました。原則、毎月第1、第3の金曜、土曜が開館日です。

HOSHINO DBはパラメディカ蔵書のデータベースです。大腸がん闘病記をHOSHINO DBに掲載しました。