がんになって生きる事の大事さを知った。
しようもない事でなやむな!
とにかく今年は来年は・・・
健康が一番、と思えるようになった。
楽しくいこう
楽しくいこう!・・・
諦めていた生命保険に勧誘され入った結果・・・
1999年、肺にがんがみつかりました。
以後16年間、大学病院で経過を診ていました。
あきらめていた生命保険に入れると誘いがあり、入りました。(3年前です。)
その本体に基づいて、がん保険の誘いがありましたが、
その頃首のあたりに異常を感じていたので、医大の医師からのすすめもあり耳鼻咽喉科へ診察に行きました。
その間A保険の勧誘員から再々電話があり
「首の甲状腺でひっかかっているので今は入りたくありません。後で揉めるのも嫌だから。。。」
の言葉に、
「甲状腺はがんではありませんから、もうひとつの保険は間違いなく入れますし、
がん保険は3か月の免責期間があります。
3か月でがんになることはまずありえませんからぜひ入会してください」
と言われてまぁいいかで入りました。
その後、医師の方も
「悪い物ならあなたはとっくにおだぶつしてますよ。私はこのまま様子を見てもいいと思いますよ。
けれど貴女がどうしても気になるなら手術しても良いですよ。」
一旦は帰りましたが気にならない訳がない!
再度自分から行きました。
手術してはっきりしたい、このままうやむやにはできないからと、、、
急ぐ必要はないといった医師は3か月以上も後の予定を入れてきました。
平成27年12月3日、入院翌日の4日に手術。
取ったものから10日後、7つのがん細胞が出ました。
A保険の責任開始日は平成27年12月3日でした。
保険は解除、かけ金も戻りません。
本体の保険も解除されました。
どうしても病気を隠してしまう・・・
①がん=死のイメージが定着しているのか、住んでいる地域で噂が広まり、「あの人はだめらしい」とか言われる。そのため、どうしても病気を隠してしまう。
②遠方での治療はお金がかかる。
③希少がんにも効果のある薬を是非、開発してほしい。
『ガン』という病気への偏見や差別をなくしたい・・・
平成28年1月、私はガンの宣告を受けました。子宮頸ガンです。私は結婚がその時に決まっていて、これから幸せになろうとしていた矢先の出来事でした。
ガンの細胞は大きく、手遅れで子宮を全摘出するという手術を受けました。
子宮と共に、婚約者も失いました。
私は毎日が苦しくてたまらなくて、「死んでしまった方がどれだけ楽か・・・。」とか「子宮が無くなった私はこれからどうやって生きていけばいいのか・・・。」とか考えてしまい泣いて過ごす日々でした。
毎日枕を濡らしました。
しかし、こんな私の為に泣いてくれた人達がいました。
その人達に私はこれから一生償っていこうと思いました。
それは『私が生きて毎日輝くこと。』『たくさんの作品を世の中に出すこと。』そして『私と同じ立場の人たちの支えになるような希望を届けるような人間になること。』だと思います。
私は大病して大きな手術を受けた人のように見えないとよく言われます。確かに術後は本当につらくて大変だったけれど、「こんなに元気になれたんだよ!」っていうことを証明し、『ガン』という病気への偏見や差別をなくしたいです。
今、現在闘病中の人達に届けたいです。がんばらなくてもいいです。少しでも楽しんでほしい。
『私のしたいこと』がテーマですが、私はイラストレーターですけれど、絵で活躍することよりも、やっぱり結婚したいです。支えてくれる人の大切さを知りました。私には病気になったことで沢山の愛をもらい、それを育むことができます。何が何でも幸せになります。本も出したいです。
最後の授業(総集編) 〜延 哲也を生きるということ〜
13歳で小児がんを経験し、38歳で大腸がんと診断された延哲也さん。 2016年3月26日に行われた最後の授業は、長いあいだ病と向き合い続け、 ひたすらまっすぐに生きた、延哲也・人生の記録。 「一人でも多くの人に出会い、一人でも多くの人と話がしたい」。 その思いを叶えた45年の人生は、出会った人たちそれぞれ胸の中で 生き続ける…。
最後の授業〜延哲也を生きるということ〜総集編。
最後の授業その④〜延ちゃん先生 最後のメッセージ〜
2015年12月。抗がん剤による治療が中止となった。
6年間続けてきた積極的な治療が難しくなり絶望の淵に立たされた延さん。授業の後半にその時の思いを語った。妻の浩子さんをはじめ教え子らとの交流が胸に迫るとともに、最後まで自分らしく生きていこうと決意する延さんに万感の拍手が送られた。
最後の授業。最後のメッセージ。
最後の授業その③〜6年間・病とどう向き合ったか〜
発症から6年間。再発と治療を繰り返す日々。
そのなかで希望も生まれた。それが、長年主治医として寄り添ってくれた稲田医師との結婚だ。延さん43歳。抗がん剤に耐性ができ、がん治療は厳しい状態を迎えつつあったが、伴走者とともに病と向き合えるようになった。
涙と笑いが交差した6年をたどる。
最後の授業その②〜治療の日々を支えてくれたもの〜
38歳で診断された大腸がん(直腸がん)。小児がんに続く二次がんだった。手術、放射線、抗がん剤など治療を続けるものの、再発さらには再々発を繰り返し長引く入院の日々。その日々を取材したドキュメンタリー映像を通して、これまでにない“緩和ケア”の概念を伝え、緩和ケアから導き出される“生きるための支えとは何か”を考える。
映像後の延さんの感想に、その思いは凝縮されている。
最後の授業その①〜教師を目指したわけ〜
ネクタイをして、いつもように元気な挨拶ではじまった最後の授業。がんが進行し、心身の疲労や痛みに悩まされるなか、延さんにとって大切な一日がはじまった。
最初に語り出したのは、「なぜ教師になろうと思い至ったのか」、そして「何を伝えようと考え続けてきたのか」。そのきっかけは、13歳の時の小児がん経験にあった。
今生きてる人のために微力ながら尽そうと思って一筆啓上・・・
告知受け10年になります。10代~30才ごろまでAmature Boxer として国体・全日本にも出場。BodyにもDamageを多少なり受けている。
今息子(Doctor)、孫(研修医2年目)、二男(朝日新聞記者)も活躍しているので少なからず(精神的に)力を受けている。
父は1945年に戦死。母と兄弟6人力を合わせて生きてきた。
母は1959年出産。3月頃、北大で約1800cc輸血を受けた。室蘭、名古屋、大分と引っ越し大分病院にて認定C型となり病状も思わしくなく、荒尾ケアハウスより済生会熊本で通院治療したが、肝臓がんでなくなりました。75才でした。
私本人は荒尾市民病院にて平成11年に検診。前立腺、肺がん5mm程度が見つかり治療。現在82才。PSA は0.01 or 0.06 安定しているものの 2~3ヶ月おきに注射を受けている。男の場合、前立腺肥大は右肩上がりと聞く。
エイズの治療薬が出たので(30年前)、がんもいずれ解決するだろと?楽観している。
参考まで血糖値は食後、約130。
がんサロンにも度々出かけて楽しく送っている。先日は、がん仲間と山登りも楽しんだ。
ホームで暮らしているが、気の合った友達もでき、一緒に外で運動をしたり会話も楽しんでいる。
今生きてる人のために微力ながら尽そうと思って一筆啓上。