妻は高校の同級生で、20歳で結婚しました。1男2女、孫が7人います。妻には、私の看病、子育てなど大変な苦労をかけてしまいました。私を支えてくれた妻が、私の腎臓がん手術のあと(その後肝細胞がん3回)、もの忘れがはじまり、アルツハイマー型認知症と診断されました。3年前から歩くことも話すこともできなくなりました。現在デイサービスを利用しながら在宅介護をしています。何年続くかわかりませんが、私の体力の続く限り在宅を続けようと思います。それが妻へのお返しです。
私は病気とは闘わないことにしています。病気も身内だからです。特にがん…
私は病気とは闘わないことにしています。病気も身内だからです。特にがんが見つかった時には「がんよ私を殺すなよ。私が死ねばお前も死ぬのだぞ」と呼びかけています。
自分のためではなく誰かのために!
幸田道子さん。毎年検診を受けていたにも関わらず、肺に見つかったのは5cm大のがんでした。その後抗がん剤治療、半年で再発。そして、脳への転移。生きる意欲をなくし、もう終わりに近づいたと思う幸田さんが希望を見出だしたのは、患者会での様々な人との出会いでした。人と語り合い、自らの悩みを打ち明ける事で気持ちが軽くなって行った。そうした気持ちになれたのは、5年10年と前向きに生きて来た人たちの存在です。そして、世話役の一人源靖夫さんにお弁当を作ろうと思い立ちました。肺がん、食道がんを経験し、胃も食道も無く、一人暮らしで食事もままならない源さんに何かしてあげられる事は無いか。「生きていてもらいたい」という想いからでした。人は人と繋がり役割を持つ事で生きる希望に繋がる。幸田さんと源さんのドキュメント。
→「パラメディカ」肺がん闘病記 紹介
抗がん剤治療の日々 患者に向き合う日々
病院の心理療法士として、患者さんの相談に応じる小島三惠子さん。2012年、自らの身にがんがあることを知りました。父親をがんで亡くしていることもあり、父の闘病生活を通して“がんは激しい痛みや苦痛をともない、治らない病”という認識をもっていました。実際に抗がん剤治療を開始してみると、手のしびれや声が出にくくなるなど様々な症状に悩まされていますが、今も小島さんは仕事を続けています。それが可能になった訳は、自らの病を公表したことにあります。辛い時には助けを求めるようにしてみると、そこには多くの“支援の輪”、“人の輪”が生まれたといいます。ほかの患者さんのために力を尽くせる今が、かけがえのないものだと実感する小島さんです。
高校教師をあきらめない! 2013
教師として忙しい日々を送っていた延哲也さんが大腸がんと診断されたのは38歳の時。手術をしたものの、その後も再発、再再発と次々とがんがみつかりました。手術や放射線、抗がん剤などあらゆる治療を続けていますが、それは同時に副作用など多くの痛みに悩まされる日々でもあります。手術後には腸の活動が戻らず、腸閉塞(イレウス)となり、吐き気や腹痛で食事がとれなくなることもありました。それでも延さんはそうした痛みに耐えながら前向きに治療と向き合っています。なぜなのか?「辛い治療を続けるのは、自分の居場所、学校に戻って教鞭をとるため」だと延さんは云います。副作用や痛みをはじめ、不安にも向き合う緩和ケアも受けながら、50日ぶりの退院を果たした延さん。迎えてくれたのは、黒板に大きく書かれた「おかえり」の文字と、子供たちの笑顔でした。
出張デイホスピスが希望をつないでくれた〜原村光一さん〜
6年前に甲状腺がんと宣告された、原村光一さん(64歳)は、寄る辺無き人生に絶望していたが、福岡県行橋市のクリニックが開くデイホスピスに行き何十年ぶりかにギターを弾く事を始めた。人との繋がりは生きる希望になり、感謝の気持ちとともに死ぬ事の恐怖さえ遠ざけてくれる。原村さんのドキュメント。
自分の両親が“がん”の病に倒れて故人となってから20年余り以上になり…
自分の両親が“がん”の病に倒れて故人となってから20年余り以上になります。自分は7年前に大腸がんと診断され、手術をうけ10日間程で退院でき現在元気にしております。2~3年に一度定期検診をうけております。毎日の生活において、食事等に留意するとともに運動等により”ストレス”をためないよう生活しております。この世に”がん”患者が一人でも少なくなるよう祈っております。
→「パラメディカ」大腸がん闘病記 紹介