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がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(嚥下), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後、結局3ヶ月半入院していましたが、その間に嚥下、つまり食べ物の飲み込みがうまく出来ず、むせてむせて、苦しみました。
当初は、舌とリンパ節を切っただけなのに、なぜミルクが飲めないのか不思議でした。食事に出たパック入りの牛乳を、ストローでいくら吸おうとしても、牛乳が吸い上げられませんでした。ずーと後になって分かったことですが、これはノドの筋肉が腫れていて、筋肉に力が入らないことに原因がありました。
私は入院中に娘が買って来てくれた嚥下の本を読んで、自分なりに色々と訓練をしました。一番大切なことは、弱ったノドの筋肉を強化してやることでした。
 手術後1ヶ月くらいは、身体を起こすことも、横向きになることも、思い通りになりませんでした。これは首を固定されたまま仰向けに寝ていたため、腹筋・背筋がすっかり萎えてしまったのです。
また、毎朝目が覚めると、首が鉄製の首輪で固定されているかのような感じでした。このため首を上下に動かすことが出来ませんでした。歩くときは、5m先を見る姿勢しか取れず、上下左右を見るときは、身体全体を曲げたり、ねじったりしていました。
この首輪による拘束感は、一日中続き、重苦しくて、1年経っても時々「何とかしてくれ!」と絶叫したい衝動に襲われました。
主治医の先生の話では、手術のとき神経に多少触ったためかも知れないということでしたが、同じ理由からでしょうか、入院中は腕や肩が動きませんでした。手を後ろに回すことも、腕を上に挙げることも出来ませんでした。
ですから、手術後1ヶ月経過しても、自分一人ではお風呂に入れませんでした。自分は棒立ち状態のままで、肌着を脱ぐことも浴槽に入ることも、すべて家内に助けてもらいました。
こんな状態ですから、私は退院する日まで、痛いのを我慢しながら、毎日毎日一生懸命腕や首や肩を動かす訓練をしました。この時の経験をまとめて、入院中に「機能訓練マニュアル」を書きました。作成者はナース室になっていますが、ベッドにノートパソコンを持ち込み、私が作ったものです。その後改訂版が作成されているようです。 (「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後8日目に家内と娘に筆談で、こう告げました。
「こんな苦しみはもう2度としたくない。今度ガンが再発したら、ホスピスに入れてくれ」と伝えました。娘は泣きながら了承してくれました。家内は涙をこらえて、無言のままでした。
娘の看病日誌には、こう書かれていました。
父「もう手術は嫌だ。舌ガンは地獄だから、次のときはホスピスに入れてくれ」
S子・父泣く。(S子というのは娘の名前です。)
「了解してくれるな!S子。今までの人生最高に満足している」(これは私の言葉です。)
娘が付けた看病日誌は、その後家内が続け、後半は自分の入院日記として書き続けました。今となると、とても貴重なものです。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, がん治療, 舌がん

今から5年半前に舌癌のために、舌の3分の2と首の両側のリンパ節をすべて切除しました。いわゆる舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術との両方を受けました。約11時間の手術でした。舌については、太ももから採った皮弁で再建しております。奥歯は上下ともありません。
皆さんも、手術後の痛みがどれほどのものかは経験済みですが、私の場合も手術後の1週間は地獄の日々でした。この1週間は、ただただ激痛をこらえる事、痛みに耐える事、それしか考えていませんでした。それが1日の時間のすべてでした。生活のすべてでした。胸から頭のてっぺんまで、猛烈に腫れあがって、その痛みと頭痛に苦しみました。
毎日看護師さんが顔を拭くようにと熱いタオルを差し入れてくれるのですが、痛くて顔を拭くことすら出来ませんでした。それができるようになったのは、手術後1ヶ月経ってからのことでした。
当時は38度以上の熱で灼熱地獄にでも居るような苦しさで、全身汗でびっしょりでした。それで顔をウチワであおいでもらったら、髪の毛がかすかに動くだけで、痛くて耐えられないほどでした。
舌は2~3倍に腫れ上がり、3分の1しかないのに、口からあふれんばかりでした。鼻に差した管が動いたときの脳に走る痛烈な激痛や、またノドのカニューレのせいで、年中セキが止まらず、その都度胸に熱い激痛が走ったことを今でも忘れることが出来ません。
いつも高熱と頭痛にうなされていて、よく幻覚を見ました。目をつぶると、周りにいる人の声は聞こえるのですが、奇妙なことに天井からスルスルとカーテンが降りて来たり、自分がゴミの山の中で寝ていたり、天井が砂漠に変わって、そこに砂嵐が吹いているのです。自分がそんな妙な環境に居ることを不思議とも思わず、それが現実の世界だと信じていました。今考えると、明らかに幻覚でした。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声30代 女性, スキルス胃がん, 私のできること

私は何度も死にたいと思いました。肉体的に辛い中、心もふさがって、なぜこんな思いをしてまで生きている必要があるのだろうと思いました。そんなときに先生方や、その他にも看護師さん、家族や周りの方々が、わたしが回復するために精一杯のことをして下さいました。その時々に私は救われ、癒され、生きる力を頂いたのだと思います。
体重減少と脱毛で変わり果てた自分になっていたころ、あるボランティア団体の方が縫い合わせて帽子の形にしたバンダナと折鶴をくださったことがあり、勇気づけられたことがあります。このことがきっかけで、こんな私でも何か役に立つ事ができればと院内ボランティアに参加し、そのご縁で患者会とも出会うことができました。
私は現在前向きに生きていこうと思っています。私の手術前の状態では、術後5年間の生存確率は5割を切るということです。今で丁度術後3年経ちますが、今のところ再発はありません。ただ副作用の色素沈着や涙道閉鎖、ダンピングは常時起こり、抗がん剤が終わって(あんなにつらい抗がん剤も、やめる時はものすごく不安になりました)8カ月が過ぎましたが、今も抜けきっていないのかしんどくなることがよくあります。
でもこのような病気になったからこそ感じられたこと、出会えた人々、そして何よりも今生きていられるということの幸せ、喜びと感謝は、言い表すことのできないものです。
もしも私と似た境遇の方がこの文章を読んで下さることがあれば、つらくても前向きに生きて欲しい。たくさんの喜びもあるということをお伝えしたいです。

がん一万人の声, 肺がん40代 女性(家族), 認知症の夫が肺がんになった時

祖父が癌になったのは祖父が84歳の2001年初秋の事でした。祖父がオシッコの出が悪いというので、当時通っていた病院で検査してもらいました。今はどうか分かりませんが、当時はドラマのように病院から電話がかかってきました。「患者さんのことでご家族に話したいことがあるけど、病院に来れる日を教えてほしい」と。もうここでピンっときちゃって、先生の話を聞く前に「ガンだったんですか?」って聞いちゃったくらいでした。
結局、前立腺がんが元の肺がんだったのですが、祖父も歳だしそんなに進行も早くないだろうということで告知しない方針で、あとは通院しながら様子を見ようということになりました。
祖父が退院する予定日の少し前、父が大動脈解離で倒れ、祖父が家に帰ることができなくなってしまいました。母と私は毎日2つの病院にお見舞いに行く日々が続きストレスで私も入院してしまいました。
幸いにも父は一命を取り留めましたが、祖父の癌は進行が早くあっという間に脳まで転移してしまいました。
父のことで満足に看病ができないまま、翌年の2月、北海道出身の祖父の為にか、名古屋で珍しく積雪があった朝、病院からの電話で危篤だと知らされ、タイヤにチェーンを巻く時間もなく慌てて祖母と母と病院に駆けつけました。ギリギリ最期を看取れましたが、祖父の子供の叔父たちは、間に合いませんでした。
祖父の13回忌が終わった今でも、満足に看病できなかったこと、きちんと最期のお別れができなかったこと、とても心残りです。

→「パラメディカ」肺がん闘病記 紹介

がん一万人の声40代 女性(家族), 腎盂ガン

主人から「おしっこが赤ワインみたいに赤い」と言われ、びっくりしてすぐ泌尿器科の病院を探して行った。脳裏に浮かんだ言葉はガン・・・。父がガンで亡くなっているので、とにかく早く病気を確かめたかった。
最初に行った病院では結石ではないか、ということで、とりあえずほっとした。年末だったので詳しい検査、結果は年明けということで、正月を過ごした。
年が明けて病院に行くと先生が険しい顔をしている。「紹介状を書くので大きい病院で診てもらったほうがいい。」その言葉を聞いてまた頭の中ではガンの文字がグルグル回っていた。
すぐに大学病院に行き、検査の予約、検査入院・・・とバタバタしたが、不謹慎にも考えてしまうのはもしもの場合。不安で不安で仕方がなかった。
主人はその大学病院ではなく、近所の病院で手術をし、今は経過観察だけですが、この経験を元にボランティアを始め、毎日忙しそうです。

がん一万人の声50代 女性, 子宮頸がん, 私のできること

がんの告知をされた時、私は会社を営んでいました。
その為、自分自身の体を一番に考える事が出来ず、治療より仕事を優先してしまい、病気が進んでしまっていました。
中小企業では、社長や役員が必死になって働かなくては会社は成り立って行かず、「病気イコール廃業する」と言う人は少なく無いと思います。私自身も術後しばらくの間頑張っていましたが、無理が出来ず、結果廃業することになり、経済的に苦しくなりました。
がんになって生活スタイルを変えなくてはいけない人がたくさんいると思いますが、何とか生活スタイルを変えなくても良い様、世の中の理解や治療法が出る事を期待したい。
今はがんになった事で何が出来るか模索中です。

がん一万人の声40代 女性(家族), 腎臓がん

ある土曜日の朝、駅のホームで電車を待っている時に、実家の母から携帯電話の着信があった。そこで父が癌だと聞かされた。
腎臓癌だと聞かされたのは前日で、父と母の二人で話を聞き、昨夜はふたりして泣き明かしたと言っていた。
とりあえず用事を済ませ、すぐ看護師の友人に電話をした。今後のことを相談するためだ。ちょうどホスピス開設のニュースを見た頃だったので、ホスピスの事も聞いてみたが、費用の面、ベッドの数の面で入れないだろうと言われた。その時に自宅介護という方法も教えてもらった。
今では在宅介護も当たり前になっているが、当時はまだ珍しかったようで、往診してくれる先生を探す所から始まった。病院のホームページを調べたり、ホームページが無いところは電話をして聞いたり、見つかったと思えば癌患者ダメだと断られたりと大変だった。
他にも市役所に行き、どういうサービスが受けられるか聞いて、ケアマネを探したり、訪問介護ステーションに依頼に行ったり、介護ベッドを借りられる所を探したり、とにかく老人介護の為のものはたくさんあったが、がん患者のための仕組みが点々とあるだけで線で結ばなくてはいけなかった。
車椅子でも生活できるよう家の中をリフォームし、長女の私は母と介護するために実家へ戻り、派遣で勤めていた会社も辞めた。
父が退院する時は独りで歩くことが出来ない状態だったが、家に連れて帰ってきたら、独りで歩けるようにもなったし、食事もちゃんと食べられるようになった。
それから約2ヶ月父と一緒に生活できた。最期を看取ったのも自宅。あとで聞いた話だが、父が退院するときあと2週間もたないと医師間で引き継ぎがあったようで、それが約2ヶ月持ったから先生も感心していた。
父が亡くなってからしばらくは、まだいっぱいやれることがあったのではないか。他にいい方法があったのではないかと後悔していたが、「当時でのやれることは精一杯やった。」「どんなにやっても人間後悔するよ。」と言われて、やっと心の整理が出来た感じだ。
当時まだ自宅介護は介護保険も使えず、かなり出費があったが、自宅で介護できて本当によかったと思う。

がん一万人の声, 乳がん70代 女性, 乳がん, 告知

昨年(2013年)の6月、乳がんの告知をうけ、7月25日に手術しました。
幸いに、しこりは8㎜(自分でみつけた)と小さく手術も傷口13針位ですみました。
術後、ますいの為か2、3日はき気に悩まされましたが、痛みもほとんどなく、現在の治療はホルモン剤(アナストロゾール)1日1ヶと、3か月毎の検査をしております。
子宮がんの心配もあったので、1年間、3か月毎に検査をうけましたが、乳がんの手術以上につらく途中で検査を受けるのやめようかと思いました。
1年に1回の検査になったのでホッとしています。
母も兄もガンで亡くなっているので、常に転移のことが心配で気になりますが、日常生活は運動(太極拳・卓球・バドミントン 1時間半程度)趣味の編物、書も続けておりましたが、半月前に5時間ほど記憶が無くなり診断は、一過性健忘症でした。
その時も頭に転移したんじゃないかと考えたり、感情が高ぶりイライラしてつい主人にあたってしまいヒステリックになったりします。
運動のし過ぎでつかれたのかなーと反省したりしますが、性格的にじっとしていられないので、又運動等して、外に出かけるようにしたり。でもゆったりしたほうが良いのかなーと思ったり、少し悩んでおります。

がん一万人の声70代 男性, 心身の支障, 食道がん

1、2001年にがん専門病院にて食道がん治療を行った。
化学・放射線治療で成功し、以後転移・再発はなく治療には感謝している。
2、しかしながら不調が多発し一般病棟で対応しているが、QOLの大幅低下をきたしている。腎機能低下、心臓弁膜症、不整脈、甲状腺機能低下ほか。
3、専門病院/一般病院間で
  ①副作用の予測と実績の共有化によるQOL UPもしくは、予防
  ②これらが患者に見える事。
以上のシステム化と改善を希望します。