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がん一万人の声スキルス胃がん, 私のできること, 30代 女性

私は何度も死にたいと思いました。肉体的に辛い中、心もふさがって、なぜこんな思いをしてまで生きている必要があるのだろうと思いました。そんなときに先生方や、その他にも看護師さん、家族や周りの方々が、わたしが回復するために精一杯のことをして下さいました。その時々に私は救われ、癒され、生きる力を頂いたのだと思います。
体重減少と脱毛で変わり果てた自分になっていたころ、あるボランティア団体の方が縫い合わせて帽子の形にしたバンダナと折鶴をくださったことがあり、勇気づけられたことがあります。このことがきっかけで、こんな私でも何か役に立つ事ができればと院内ボランティアに参加し、そのご縁で患者会とも出会うことができました。
私は現在前向きに生きていこうと思っています。私の手術前の状態では、術後5年間の生存確率は5割を切るということです。今で丁度術後3年経ちますが、今のところ再発はありません。ただ副作用の色素沈着や涙道閉鎖、ダンピングは常時起こり、抗がん剤が終わって(あんなにつらい抗がん剤も、やめる時はものすごく不安になりました)8カ月が過ぎましたが、今も抜けきっていないのかしんどくなることがよくあります。
でもこのような病気になったからこそ感じられたこと、出会えた人々、そして何よりも今生きていられるということの幸せ、喜びと感謝は、言い表すことのできないものです。
もしも私と似た境遇の方がこの文章を読んで下さることがあれば、つらくても前向きに生きて欲しい。たくさんの喜びもあるということをお伝えしたいです。

がん一万人の声30代 女性, スキルス胃がん, 抗がん剤の副作用

術後数週間後から、がんの再発防止のため、退院と同時位に抗がん剤のTS-1を服用することになりました。そしてそれらの副作用は私にとって忘れることができない苦しいものでした。先ず飲み始めてすぐに、横になっていても目がぐるぐる回っているような感じに襲われ、しかもこの副作用は服用し始めてその後にどんどんきつくなっていきました。また併用して2度打った点滴(抗がん剤のシスプラチン)の副作用では食欲が全くなくなり、水分さえ取れなくなってしまいました。
やっとの思いで食べ物や飲み物を口にしても直ぐ下痢になってしまったり、それによって体力が消耗してしまいます。その結果またエネルギーが必要になるという悪循環になってしまうのです。
この点滴のための入院予定期間は一週間程度だったのですが、栄養を補充するために点滴が外せず結局一カ月ほどにもなりました。そして、TS-1服用だけの状態が続いて半年ほどたった時、今度は検査で腫瘍マーカーの数字が上がってきたことから、新しくタキソールという点滴もTS-1と併用することとなりました。この点滴をする前、医師から脱毛の副作用を告げられていましたが、点滴が進むとその告知通りに私の髪やまゆ毛、まつ毛など全てが抜けていきました。
最初に2度打った点滴で15キロほども痩せ、脱毛してしまった自分の姿を鏡で見た時は、本当に言葉がでませんでした。タキソールが終わった後もTS-1服用は続けられ、普通は1年とされているバックアップの抗がん剤を2年に延長されました。その間、このような顕著な副作用の他にも、常に感じていたのは100Kgの人を背負っているような倦怠感です。何をするにも本当に大仕事でした。

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手術は成功したのですが、私の場合はそこからがとても大変でした。今も、そしてこれからも苦しみが全て消えることはなく、これからの人生で、私はずっと自分の体や心と向き合って生きていくことになりました。ここでは、そのことについて触れたいと思います。
手術が終わった直後、ドレーンや管がまだ体に通っている状態から、回復を目指して動いたり歩いたりの訓練が始まりました。この時は今までの人生で味わったことのない激痛が続きました。私は自分のことを痛みに強いほうだと思っていたのですが、痛み止めの薬をおかわりするように続けて飲んでいました。
また自分の臓器の一部がなくなると、寝返りを打つだけでも体の中で内臓がこれまでにない動きをしているようですごく痛く、脈拍も上昇し、心が不安になりました。
のちに食事の許可がおりましたが、胃が失くなった状態でものを食べることで「ダンピング」という症状がでます。腸が胃を通さず急激に栄養を吸収するため、まるで長い距離を全速力で走った後のような動悸や苦しみがあり、一度にたくさんの量を食べないようにしたり、ゆっくり食べたりと気をつけたりしますが、それでも体調の悪い日は症状が出やすかったりして、3年経った今でも私はこれに悩まされています。

→「パラメディカ」胃がん闘病記 紹介

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私は今からちょうど三年ほど前、胃に膨満感を頻繁に感じていたことから胃カメラを飲み、胃がんであることが発覚しました。胃上部スキルスの4型、ステージがⅢCというものでした。
お医者様からこのことを告げられ、あまりに受け入れがたい大きな現実に直面するなかで、私はショックというよりも、なぜか普通に受け止めていました。なんだかふわふわと現実離れした空間の中にいるようでした。手術前の検査を終えた時点では、開腹手術以外の手段はなく、それさえも転移などがあればできなくなるという可能性がありました。いきなり知ったこのような現実を私も家族もただただ受け止めるしかなく、手術が行われました。
幸い先生が手を尽くして下さり、8時間に及んだ手術は輸血もすることなく成功しました。その内容は胃を全摘出、脾臓も取り、十二指腸を閉じて食道と小腸をつなぐというものです。また33個のリンパを取ったのですが、そのうち9個は転移していたということでした。

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がん一万人の声, 乳がん40代 女性, 乳がん

元気が一番ですが、元気ではなくても明るく過ごしています。夏休みの目標は娘と遊ぶこと。一年生になった娘とプール、遊園地、バーベキュー、花火、お菓子作り。家族や友達に助けられながら、沢山遊びました。子供のうちは、娘のそばにいたい。大きくなってきたら少しずつ仕事もしていきたい。虎視眈々とやりたいことを実行していこうと思っています。夏休み最後の今日、娘の前歯の乳歯が抜けました。大きくなっていく彼女を長く見守りたいなと思っています。

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そういえば、ずっといろんなことを我慢し続けてきた様に思いました。 自分が我慢することで「相手に嫌な思いをさせないでおこう」とか、やりたいことがあっても今の自分では無理ではないかと思ったり、周りの反発を受け止めることが出来ないように思えて動かなかったり。でも、検査の結果によっては自分の残り時間は少なくなるかもしれない。もう我慢はやめとこう。そう思いました。治療で娘や主人にしんどい思いはさせたかもしれないけれど、我慢をやめたことで気持ちが楽になり思い切ってしたいことを少しずつではあるけれどしています。

がん一万人の声, 乳がん40代 女性, 心身の支障

娘が2歳10ヶ月、私が36歳のときに乳がんだということが分かりました。丁度検査などで病院に通っていたのが8月の暑い最中で、自転車で汗だくになりながら「こんなに元気なのに重い病気かもしれないんだなぁ」と思っていました。
告知をされたときに、「乳がんです」と言われたことはそれほどショックではなかったのですが、治療の説明を受けているうちに妊娠も出来なくなるということが分かり、そのときに改めて大きなショックを受けました。結婚して5年足らず。結婚した年齢が早いとは言えないまでも、まだ頑張ればあと一人、運が良ければ二人、と思っていました。
子供が欲しかったからこそ、好きな仕事も辞めて家庭に入ったのに…。

がん一万人の声40代 女性(家族), 腎臓がん

ある土曜日の朝、駅のホームで電車を待っている時に、実家の母から携帯電話の着信があった。そこで父が癌だと聞かされた。
腎臓癌だと聞かされたのは前日で、父と母の二人で話を聞き、昨夜はふたりして泣き明かしたと言っていた。
とりあえず用事を済ませ、すぐ看護師の友人に電話をした。今後のことを相談するためだ。ちょうどホスピス開設のニュースを見た頃だったので、ホスピスの事も聞いてみたが、費用の面、ベッドの数の面で入れないだろうと言われた。その時に自宅介護という方法も教えてもらった。
今では在宅介護も当たり前になっているが、当時はまだ珍しかったようで、往診してくれる先生を探す所から始まった。病院のホームページを調べたり、ホームページが無いところは電話をして聞いたり、見つかったと思えば癌患者ダメだと断られたりと大変だった。
他にも市役所に行き、どういうサービスが受けられるか聞いて、ケアマネを探したり、訪問介護ステーションに依頼に行ったり、介護ベッドを借りられる所を探したり、とにかく老人介護の為のものはたくさんあったが、がん患者のための仕組みが点々とあるだけで線で結ばなくてはいけなかった。
車椅子でも生活できるよう家の中をリフォームし、長女の私は母と介護するために実家へ戻り、派遣で勤めていた会社も辞めた。
父が退院する時は独りで歩くことが出来ない状態だったが、家に連れて帰ってきたら、独りで歩けるようにもなったし、食事もちゃんと食べられるようになった。
それから約2ヶ月父と一緒に生活できた。最期を看取ったのも自宅。あとで聞いた話だが、父が退院するときあと2週間もたないと医師間で引き継ぎがあったようで、それが約2ヶ月持ったから先生も感心していた。
父が亡くなってからしばらくは、まだいっぱいやれることがあったのではないか。他にいい方法があったのではないかと後悔していたが、「当時でのやれることは精一杯やった。」「どんなにやっても人間後悔するよ。」と言われて、やっと心の整理が出来た感じだ。
当時まだ自宅介護は介護保険も使えず、かなり出費があったが、自宅で介護できて本当によかったと思う。

がん一万人の声, 肺がん40代 女性(家族), 認知症の夫が肺がんになった時

祖父が癌になったのは祖父が84歳の2001年初秋の事でした。祖父がオシッコの出が悪いというので、当時通っていた病院で検査してもらいました。今はどうか分かりませんが、当時はドラマのように病院から電話がかかってきました。「患者さんのことでご家族に話したいことがあるけど、病院に来れる日を教えてほしい」と。もうここでピンっときちゃって、先生の話を聞く前に「ガンだったんですか?」って聞いちゃったくらいでした。
結局、前立腺がんが元の肺がんだったのですが、祖父も歳だしそんなに進行も早くないだろうということで告知しない方針で、あとは通院しながら様子を見ようということになりました。
祖父が退院する予定日の少し前、父が大動脈解離で倒れ、祖父が家に帰ることができなくなってしまいました。母と私は毎日2つの病院にお見舞いに行く日々が続きストレスで私も入院してしまいました。
幸いにも父は一命を取り留めましたが、祖父の癌は進行が早くあっという間に脳まで転移してしまいました。
父のことで満足に看病ができないまま、翌年の2月、北海道出身の祖父の為にか、名古屋で珍しく積雪があった朝、病院からの電話で危篤だと知らされ、タイヤにチェーンを巻く時間もなく慌てて祖母と母と病院に駆けつけました。ギリギリ最期を看取れましたが、祖父の子供の叔父たちは、間に合いませんでした。
祖父の13回忌が終わった今でも、満足に看病できなかったこと、きちんと最期のお別れができなかったこと、とても心残りです。

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がん一万人の声40代 女性(家族), 腎盂ガン

主人から「おしっこが赤ワインみたいに赤い」と言われ、びっくりしてすぐ泌尿器科の病院を探して行った。脳裏に浮かんだ言葉はガン・・・。父がガンで亡くなっているので、とにかく早く病気を確かめたかった。
最初に行った病院では結石ではないか、ということで、とりあえずほっとした。年末だったので詳しい検査、結果は年明けということで、正月を過ごした。
年が明けて病院に行くと先生が険しい顔をしている。「紹介状を書くので大きい病院で診てもらったほうがいい。」その言葉を聞いてまた頭の中ではガンの文字がグルグル回っていた。
すぐに大学病院に行き、検査の予約、検査入院・・・とバタバタしたが、不謹慎にも考えてしまうのはもしもの場合。不安で不安で仕方がなかった。
主人はその大学病院ではなく、近所の病院で手術をし、今は経過観察だけですが、この経験を元にボランティアを始め、毎日忙しそうです。