海外でがん治療を受けました。がんは、どこにでもある「普通の病気」。周りの人たちは、病気にはなったけど「私」は「私」として接してくれました。
日本に帰ったら、がんは死に至る「特別な病気」。がんの人、がんではない人の間には壁があってこちら側とあちら側に分断されている感じがしました。
ある時、鬱で休職した友人が、私ががんであることを知らずに、「でもさ、”がん”よりましだよね」と私に言った時、絶望感に打ちのめされました。
2人に1人ががんにかかる時代と言われ、法改正や医学の進歩のスピードが増す中で、人々の意識はなかなか追いついていません。でも10年前よりは少しずつですが良くなっていると思います。
治療を終えて10年以上経ちました。私もがんになったことをオープンにすることができるようになり、がんになってもならなくても「私」が「私」でいられる環境作りを仲間と少しずつですが始めています。
海外でがん治療を受けました
支えに成ったこと・がんになって得たもの
■病名「上顎洞腫瘍」
■一番苦しかった時
「抗がん剤治療・投与中」
第一回の手術は口中から切除して病巣の生検を行い、悪性腫瘍が判明しました。術後、右耳前の動脈から自動注射器で抗がん剤を投与しましたが、あまりの耐えがたい苦痛のため一ヶ月持たないで抗がん剤治療を断念。放射線治療は続けました。
この頃、嘔吐がひどく食事も出来ず、病室から見える病院の屋上からジャンプして苦しみから逃れたかった。
その時、枕元に置かれていた「家族の写真」が私を救ってくれました。涙が溢れてきて、頑張らなければと毎日心に語りかけてきました。家族の支えのおかげで、苦しみから少し解放されました。
1回目の手術の後は毎日、口中の切開した傷口からガーゼ交換を行い、痛み止めはモルヒネを服薬していました。
1回目の手術から一ヶ月後、顔面から切開してがん病巣を全摘する手術を行いました。
今は「右側頬骨」はありません。
入院から6ヶ月後に退院しました。その時初めて、病院の敷地を妻と散歩をしました。それまで働きずめだったので、夫婦での散歩は経験したことが無かった事に気がつきました。
■「がん」に成って得た物
家族の深い愛情と支えてくれた人々の友情。それから、今はない患者会「えがおの会」の仲間との出会いと絆でした。
「生きているとステキな出会いがあります」
乳がんの手術をしてから5年。ホルモン剤治療も終わり、寛解しました。
当時は患者会などで思いを吐き出すことで救われました。語る場は大事だなと思い、これからは、少人数でで集いが出来たらと思っています。
乳がんを体験してよかったとは言えませんが、体験したからこそ「生きる」ことを考え、たくさんのステキな出会いに恵まれました。
60代女性 乳がん体験者 チューリップさんより
手術に耐えても生活の不安が
気がつけば80歳を超え、尿道がんの宣告を受けた。充分に生きたという思いと共に、もう少し家族と一緒にいたいという思いに揺れる。大規模な手術では、その後の回復は相当なハードルだろうと思われる。寝たきりになってしまうのか?家族の介護負担は?自分で決められる事って少ない!相談するとしたらどこなのだろうか?高齢者のためのガン相談などがあれば良いのにと思う。
ソーシャルメディアのマンガで知った「がん」
ある日、なにげなく読み始めたスマホのマンガ、途中でやめられなくなって最後まで読破!
その2ヶ月後に、自分ががんという診断を受けるとは思いもよりませんでした。
しかし、何故かそのマンガに描かれていたことが、あまりにもリアルに蘇って、医師からの告知もがん治療も戸惑いや混乱も少なく、比較的冷静に受け止められました。
事前の情報、知識が大切だと思います。
M・Kさん (35)
(「いきるを包む」2020年9月号に体験談が掲載されます。)
「なんで、そこまで?」
娘さんが遺伝性がんで乳がん卵巣がん症候群と診断。
乳がんの後に卵巣を摘出する手術を受ける事になっている。
「なんで、そこまで?」と思う。
たとえ、遺伝性であっても発症する確率は100%ではないし、子孫を残すこととがんのリスクを考えることは簡単な天秤にかけられない。
まして、私からの遺伝であれば尚更、私が産んだことまで否定されるようで辛い。
(HBOCの遺伝子検査、未発症部位の摘出手術への保険適応を受けて)
※保険適応など詳細情報は、”HBOC 保険”で多くの情報が検索できます。
K・Oさん (56)