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がん一万人の声, 咽頭がん舌がん, 70代 男性, がん治療、大切なこと

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で3か月半入院。入院中に或る看護師さんの言葉で、一番印象に残った事をご紹介しておきます。
まだ流動食を摂っていた頃の話です。流動食なので歯を使うこともないので、毎日の歯磨きを省略していました。すると或る日のこと、その看護師さんが私に「M.Yさん、歯磨きをしていますか?」と言うのです。それで「流動食なので、止めています」と答えました。すると彼女が「歯磨きもそうですが、普段口を動かして来たことがリハビリになるのですよ」と諭すように言うのです。この一言は強烈なインパクトがありました。私は、そのときハッとしました。リハビリというのは、特別の訓練をすることではなく、健康な頃やっていたのと同じことをやることなのだ、と悟りました。
以来、言葉だけでなく食べる事も身体の筋肉強化もすべて、健康な時代と同じようにすることが基本なのだと考え、そのように努力しています。私にとっては毎日の生活がリハビリそのものです。
入院中の患者さんには、「決して失望しないでください。私のような事例もありますから・・」と申し上げたいと思います。
しかしそうは言っても、私の患者会に登録された人34人のうち、すでに15名の方が亡くなられています。決して情況は明るいわけではありません。私は、今なお生き残れている自分は運が良かったのだと思っています。
しかし当時のM看護師長さんとの約束がなければ、ここまで頑張ったかどうか分かりません。また看護師さん達からの情報や叱咤がなければ、努力する気も起きなかっただろうと思います。
当時、患者会がなかったので、他人の話を聞くことも出来ませんでした。
しかし現在は、患者会に出席することで勇気づけられる事もあるでしょうし、役立つ情報があるかも知れません。夫々の方が多くの他人から情報を得て、自分なりの工夫をされることを願っています。
私は退院するときに、生意気にもM看護師長さんに「手術というのは治療の前半に過ぎず、後半がある。それは<ベッド・サイド・ケア>だけでなく<機能回復への手引き(働きかけ)>までのファイナル・ナーシングである。」と書き置きしました。
入院中は看護師さん達のケアを受けても、退院後の「自分のケア」は、患者同士の相互扶助と自助努力でやるべきものだと思っています。
入院当時を振り返る度に、いつも家族がよく支えてくれたことを思い出します。そうした家族を持てたことに「幸せ」を感じています。
そして、病院の方々に対する感謝の気持ちも忘れたことがありません。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(退院後), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で3か月半入院。私は入院の後半には、自分の身体が余りにも自由に動かないので、一生懸命にリハビリ体操をやりました。
ところが、自宅に帰ってショックだったのは、翌朝自分のベッドから降りようとして、降りられなかったことでした。身体を横向きにして身体を起こそうとしても起き上がれないのです。悪戦苦闘の末やっと降りられたという有様でした。よく考えたら、病院のベッドは電動で身体を起こしてくれる上に、手すりがあるのです。それでベッドを降りられたのです。我が家のベッドは、そんな便利になっていないので、降りられなかったのです。一番の原因は、腹筋も背筋も全く萎えてしまったことにある、と悟りました。
それで退院後は、毎晩散歩を欠かさず、しかも散歩中は声を出して言葉の訓練を必死でやりました。当初は、こうした訓練も楽ではありませんでしたが、いつの間にか慣れて来ました。
現在は、毎朝ベッドの上でストレッチ体操と腹筋体操をやっていますが、それと同時に入浴時の首や胸のマッサージをやっています。少しでも首の周りの違和感を和らげるためです。
私は入院する前には、ゴルフをやっていてハンディキャップは11でした。退院したら何とか再開したいと思い、練習場に通いました。当初は一番短いクラブを振っても1球打つ度に、首から肩に掛けて、ツキーンと痛みが走り、ボールを20ヤード飛ばすのがやっとでした。
でも1年もすると、ボールを飛ばせるようになり、ゴルフ場に行きプレーしました。しかし他のプレーヤーに言葉が通じないとか、食事の時間が短過ぎるといった色々な問題があって、とうとう一番の趣味だったゴルフを諦めざるを得ませんでした。
これらの体験から、しゃべる事、食べる事、歩く事など、一見お互いに無関係に見える筋肉ですが、実はすべてが連動していて、それらすべてがリハビリに繋がっていると感じています。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(食事), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で3か月半入院。退院直後は、もっぱら流動食でした。家内は各種のフードプロセッサーやミキサーなどを購入し、とても大変だったようです。しかし流動食というのは、まずいのです。
あるとき、赤ん坊用のビスケットを食べたら、固形でも食べられたのです。それをキッカケに、固形のまま食べることに挑戦しました。実は、固形食の方がおいしいのです。
元々舌がないので、味覚は無いようなものですが、ある程度は分かります。ただ、味をすぐに感じることが出来なくて、飲み込んだ後で味覚を感じます。その後分かったことですが、実は匂いも味覚に関係することが分かりました。ですから、お刺身のトロを食べても、こんにゃくと同じで、味がしません。しかし温かい天ぷらは味がします。油の香りが味を思い起こさせるようです。
一番食べやすいのは、ご飯でした。噛むと粘りが出るからです。それで飲み込み易くなります。
しかし、肉などは中々粘りが出ないので、苦労します。
骨のある魚も食べられません。どんなに小骨を取り除いたつもりでも、必ず残っています。困ったことに、舌がないと小骨があっても、口の中ではその感触がありません。ノドに刺さりそうになったことが何度もあり、もう食べるのを止めました。
以前は、ソバやうどんが食べられませんでした。下を向いて口を開けると、口の中の食べ物が下に流れ出てしまうからです。現在は、何とか食べられるようになりました。
そしてどうにもならないのが、生野菜です。センイは熔けてくれないからです。ですから、野菜は煮野菜中心でしたが、その後家内が生野菜を機械的に搾る特殊な装置を買って来ました。それで我が家特製の青汁の野菜ジュースを造って、毎日飲んでいます。
舌がなくて困ることの一つが、食べ物を熱いうちに食べられないことです。本当は、香りがあるうちに食べたいのですが、口の中で食べ物をこね回すことが出来ないため、熱いものを口の中に入れられません。
また初め温かくても、2時間も掛けて食べていると、みな冷たくなってしまいます。さらに2時間も3時間も口を動かしていると、舌根やその周囲の筋肉が非常に疲れます。
今は出来るだけ食事時間を短縮するために、ご飯は汁物をかけて、スルスルと食べています。退院直後に比べると、現在はかなり味を感じるようになって来たし、食事も楽になって来ました。でも、私にとっては毎回の食事は苦痛なだけで、身体のためにやむなく食べているだけです。
栄養のバランスは、ビタミン剤や栄養剤で補っています。
私は皆さんに、流動食から固形食に早く切り替えることをお勧めします。理由は、ノド周辺や舌を動かす筋肉の強化になるからです。その事が言葉のリハビリにも役立つのです。たとえば私は「マ・ミ・ム・メ・モ」をどうしてもうまく発音出来ませんでした。これらは、唇を閉じて開くことで言葉が作られます。しかし、手術で下唇を切断したために、その周りの筋肉が硬くなっていました。それで、うまく発音出来なかったのです。
それで言語聴覚士のA先生から口の周りの筋肉(口輪筋)を鍛える道具をもらい、2ヶ月ほど強化訓練をしました。そうしたら「マ・ミ・ム・メ・モ」がしゃべりやすくなりました。私の実感としては、固形物を食べることが舌の周囲の筋肉の訓練になったと感じています。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(言語), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で3か月半入院。退院後半年くらいまでは、自分の言葉が通用しない場面によく遭遇しました。
初めてJRの窓口で「禁煙席にしてください」と言ったとき、窓口の人に通じず、結局メモを出されて「字で書いてくれ」と言われました。「キんえんせキ」の「キ」が聴き取れなかったのです。
また或る病院の会計窓口で、自分の名前を「ミキ」と告げるのですが、それが通じず「診察券を見せてください」と言われ、それを出すと「ああ、M.Yさんですね」と言われたときもショックでした。
量販店に電気製品を買いに行くのですが、店員に言葉が通じないことが時々あり、困りました。それで、その後は事前に自分の言葉に障害があることを告げるようにしました。そうすると、よく通じることを発見しました。
それと、苦手な言葉を避けて、出来るだけ別な言い方をするように心掛けています。しかし自分の名前や地名は言い換えが出来ないので、大変苦労しています。銀行や病院などに電話をするとき、必ず自分の名前を告げる必要がありますが、現在でも思うように通用しないので、困っています。「ミ」も「キ」も私には苦手な「音」なのです。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 私のできること, 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で入院中、私は、不安から、将来を悲観的に考えていました。
しかし退院が近くなった或る日、私は当時の耳鼻科の看護師長さんに「自分の老後が暗くなってしまった」という話をしました。その看護師長さんが、ここにおられるMさんですが、Mさんは「今に元気になりますよ」と、私を励ましてくれました。その話を聞いて、私は一念発起して、Mさんに或る約束をしました。
「この1年間リハビリに全力を挙げて頑張ってみます。1年後ここでおしゃべりしてみます。」という約束をしました。それでだめなら、諦めようと決心しました。
その後、時々自分の情況をMさんに書き送りました。それが「舌切除患者からの便り」というものです。これは今でも、耳鼻科の病棟の本棚に、黒いファイルに綴じて置いてあると思います。最後の頁には、手術後1年を経過した時点での結果を要約してあります。
その約束を実現するために、まず始めたのは、毎晩単語の発音訓練することでした。これが、その単語表です。よく使ったので、よれよれになっています。
最後には、これを整理して「構音機能回復訓練プログラム」と称するものを作って、トレーニングをしました。構音というのは、しゃべることです。現在は、この改訂版を言語聴覚士のA先生が作っておられます。
退院してからは、先ほど申し上げたように、腹話術が役に立つかもしれないというので、腹話術の関係をインターネットで探しました。そして日本腹話術師協会というのがあることをつきとめ、その通信欄に「舌癌患者を指導してくれる人が居ないか」と呼びかけました。そうしたら、日本腹話術協会の理事の方がそれを見て、大阪に在住のプロの腹話術師を教えてくれました。
その人は、川上じゅんという方で、自宅に寄ってもらい話しを聞きました。腹話術そのものは、リハビリに何の役にも立たないことが分かったのですが、そのとき川上じゅんさんが腹話術の訓練書の中から、音声の発生理論の書かれた部分をコピーして、渡してくれました。それが、私が「音声学」に出会った最初でした。
その後、音声の発生理論と言語障害の専門書を梅田の紀伊国屋書店で何度も探し回り、見つけ次第購入し、夢中で勉強しました。20冊くらいあります。
それから、舌癌による障害を書いた専門書の中に「舌接触補助床」というものが紹介されていました。それを口の中に装着すると、発音が良くなるというのです。写真で見ると、総入れ歯のようなものなので、近所の歯医者のところに持って行き、それを作ってくれないかと相談しました。しかし「経験がないので、自分のところでは作れない。大学に行って聞いて来ます。」と断られてしまいました。その後、その歯医者さんの友人で、O歯科大学の口腔外科の講師をしているという先生を呼んでくれて、特別に診察してもらいました。
その先生は「あなたの舌は大きく切られているので、そうしたものを入れても役に立ちませんよ」と言われてしまいました。私は、その言葉に絶望的なものを感じました。
それでも諦め切れずに、インターネットで探し続けました。そのうちに大阪大学の歯学部に顎口腔機能治療部というのがあり、そこで言葉の矯正をやっているということが分かりました。
早速、そこの大学教授にメールを出しました。その結果、外来医長をしている先生を紹介してくれました。そこで作ってもらったものが、この「舌接触補助床」です。これは、試行錯誤で形状を決めます。私の場合は7回目でやっと満足なものが得られました。

この入れ歯は、言葉の矯正だけでなく、食べることにも大変役に立っています。
舌は食べ物を混ぜながら、咀嚼してない部分だけを奥歯の上に載せることをやっています。ところが舌がないと、それが思うように出来ません。当時私の舌は最大でも7mmしか伸びません。この入れ歯がないと、舌のない所に落ち込んだ食べ物を奥歯に運ぶことが出来ません。この入れ歯のお陰で、それを防ぐことが出来ます。それでも食事の度に顔を傾けたり、箸で補助したりして、苦労しています。だから、今でも1回の食事に2~3時間かかっています。
それから退院後は毎晩夜11時ごろに散歩に出て、しゃべる訓練をしました。
うまくしゃべれない単語を出来るだけ大きな声でしゃべるのです。それを他人が聞いたら、変に思われるので、人気のなくなる夜中に練習したのです。つい先日までやり続けていました。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(言葉), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術で入院中は、これからもこんな状態が続くのかと、自分の老後の惨めな姿を想像してしまい、落ち込みました。自分の身の上を真剣に心配しました。
心を痛めたことは、3つありました。
一つは「言葉がしゃべれなくなるのではないか?」という不安でした。
二つ目は「流動食しか食べられなくなるのではないか?」という不安でした。
三つ目は「首を固定した姿勢でしか、歩けなくなるのではないか?」という不安でした。
当時は、まだ会社に勤めていましたので、言葉の障害を一番深刻に考えていました。

(1)手術後10日目
手術後初めてしゃべったと。本人はしゃべろうとするのですが、口が思うように動かないのです。録音テープを聞いて、ショックを受けました。深刻に考え始めた理由です。

(2)手術後1ヵ月後(34日目)
相変わらず、しゃべるのは大変なことでした。やっとの思いで声を出しているのですが、多分大方の人は何を言っているのか分からなかったと思います。
でも自分と家内は、そこそこ聞き取れています。

この当時は、舌は一向に動かず、おしゃべりも自由に出来ず、失意のどん底にいました。
それで何人かの看護師さんに、「本当に、しゃべれるようになるだろうか?」と聞いたのですが、殆んどの看護師さんは明確には答えてくれませんでした。
その中で2人の看護師さんの話に勇気付けられました。
一人の人は、「外来の患者さんを見ていると、皆さんかなりしゃべれるようになっていますよ」と話してくれました。
もう一人の人は、「外来に来ていた人の中に腹話術をやっていたという人が居て、その人は術後もしゃべるのが上手だった」と教えてくれました。そのことが退院後、腹話術師を探すキッカケとなりました。
兎に角、もう言葉の障害のことで頭の中が一杯でした。
手術後2ヶ月が経ったとき、私は主治医に言葉の回復について相談しました。しかし「将来再生医療が発達すれば別ですが、舌がないのですから、言葉の回復はありえません」と素っ気ない返事でした。大変なショックでした。
それでも何とか回復の道はないのかと食い下がったら、「病院に言語聴覚士が居るので、その指導を受けられるかどうか聞いてみます。」という返事でした。その結果、今日ここにおられるA先生に言葉の指導を受けることになりました。耳鼻咽喉科の患者では第1号でした。毎週1回のレッスンを受けました。おかしな発音のところを教えてもらい、正しい発音の仕方を教えてもらいました。事前にある程度の知識はありましたが、実際に自分の声を聞いてもらい、おかしな発音を指摘してもらうのは役立ちました。
しゃべる上で一番の障害は、唾液が口の中に止め処なく溜まることでした。舌がないと、唾液を自動的に飲み込む機能がなくなり、唾液が溜まるのです。唾液は、1日2~3リットルも出るそうです。当時は、顎の下に洗面器を抱えて、口元からダラダラとヨダレを垂らしていました。口元を拭くのに使ったティッシュペーパーは、1日あたり5箱にもなりました。

(3)術後半年経過後
これは日本経済新聞の記事を朗読してみました。
五十音で言うと、「イ・キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・イ・リ・イ」の列の音です。
これらは、どうしてもうまく声に出せませんでした。

(4)術後5年半経過後
同じ新聞記事を読んでみました。
自分では100%聴き取れるのですが、初めて聴く人では7割程度しか聞き取れなかったのではないかと思います。でも入院当時に比べると、随分良くなっています。

入院中の多くの患者さんの中には、私と同様に言葉の障害に強い不安を持っておられる方もいるかと思います。私の体験で、その不安も少し解消しましたでしょうか?
舌がん患者の皆さんには「1年後には相当良くなっているので、自信をもってください」と申し上げたいと思います。私の録音テープが何よりの証拠です。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, 心身の支障(嚥下), 舌がん

舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後、結局3ヶ月半入院していましたが、その間に嚥下、つまり食べ物の飲み込みがうまく出来ず、むせてむせて、苦しみました。
当初は、舌とリンパ節を切っただけなのに、なぜミルクが飲めないのか不思議でした。食事に出たパック入りの牛乳を、ストローでいくら吸おうとしても、牛乳が吸い上げられませんでした。ずーと後になって分かったことですが、これはノドの筋肉が腫れていて、筋肉に力が入らないことに原因がありました。
私は入院中に娘が買って来てくれた嚥下の本を読んで、自分なりに色々と訓練をしました。一番大切なことは、弱ったノドの筋肉を強化してやることでした。
 手術後1ヶ月くらいは、身体を起こすことも、横向きになることも、思い通りになりませんでした。これは首を固定されたまま仰向けに寝ていたため、腹筋・背筋がすっかり萎えてしまったのです。
また、毎朝目が覚めると、首が鉄製の首輪で固定されているかのような感じでした。このため首を上下に動かすことが出来ませんでした。歩くときは、5m先を見る姿勢しか取れず、上下左右を見るときは、身体全体を曲げたり、ねじったりしていました。
この首輪による拘束感は、一日中続き、重苦しくて、1年経っても時々「何とかしてくれ!」と絶叫したい衝動に襲われました。
主治医の先生の話では、手術のとき神経に多少触ったためかも知れないということでしたが、同じ理由からでしょうか、入院中は腕や肩が動きませんでした。手を後ろに回すことも、腕を上に挙げることも出来ませんでした。
ですから、手術後1ヶ月経過しても、自分一人ではお風呂に入れませんでした。自分は棒立ち状態のままで、肌着を脱ぐことも浴槽に入ることも、すべて家内に助けてもらいました。
こんな状態ですから、私は退院する日まで、痛いのを我慢しながら、毎日毎日一生懸命腕や首や肩を動かす訓練をしました。この時の経験をまとめて、入院中に「機能訓練マニュアル」を書きました。作成者はナース室になっていますが、ベッドにノートパソコンを持ち込み、私が作ったものです。その後改訂版が作成されているようです。 (「口腔咽頭がん患者会」提供)

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舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術後8日目に家内と娘に筆談で、こう告げました。
「こんな苦しみはもう2度としたくない。今度ガンが再発したら、ホスピスに入れてくれ」と伝えました。娘は泣きながら了承してくれました。家内は涙をこらえて、無言のままでした。
娘の看病日誌には、こう書かれていました。
父「もう手術は嫌だ。舌ガンは地獄だから、次のときはホスピスに入れてくれ」
S子・父泣く。(S子というのは娘の名前です。)
「了解してくれるな!S子。今までの人生最高に満足している」(これは私の言葉です。)
娘が付けた看病日誌は、その後家内が続け、後半は自分の入院日記として書き続けました。今となると、とても貴重なものです。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声, 咽頭がん70代 男性, がん治療, 舌がん

今から5年半前に舌癌のために、舌の3分の2と首の両側のリンパ節をすべて切除しました。いわゆる舌亜全摘出手術とリンパ節の郭清手術との両方を受けました。約11時間の手術でした。舌については、太ももから採った皮弁で再建しております。奥歯は上下ともありません。
皆さんも、手術後の痛みがどれほどのものかは経験済みですが、私の場合も手術後の1週間は地獄の日々でした。この1週間は、ただただ激痛をこらえる事、痛みに耐える事、それしか考えていませんでした。それが1日の時間のすべてでした。生活のすべてでした。胸から頭のてっぺんまで、猛烈に腫れあがって、その痛みと頭痛に苦しみました。
毎日看護師さんが顔を拭くようにと熱いタオルを差し入れてくれるのですが、痛くて顔を拭くことすら出来ませんでした。それができるようになったのは、手術後1ヶ月経ってからのことでした。
当時は38度以上の熱で灼熱地獄にでも居るような苦しさで、全身汗でびっしょりでした。それで顔をウチワであおいでもらったら、髪の毛がかすかに動くだけで、痛くて耐えられないほどでした。
舌は2~3倍に腫れ上がり、3分の1しかないのに、口からあふれんばかりでした。鼻に差した管が動いたときの脳に走る痛烈な激痛や、またノドのカニューレのせいで、年中セキが止まらず、その都度胸に熱い激痛が走ったことを今でも忘れることが出来ません。
いつも高熱と頭痛にうなされていて、よく幻覚を見ました。目をつぶると、周りにいる人の声は聞こえるのですが、奇妙なことに天井からスルスルとカーテンが降りて来たり、自分がゴミの山の中で寝ていたり、天井が砂漠に変わって、そこに砂嵐が吹いているのです。自分がそんな妙な環境に居ることを不思議とも思わず、それが現実の世界だと信じていました。今考えると、明らかに幻覚でした。(「口腔咽頭がん患者会」提供)

がん一万人の声食道がん, 70代 男性, 心身の支障

1、2001年にがん専門病院にて食道がん治療を行った。
化学・放射線治療で成功し、以後転移・再発はなく治療には感謝している。
2、しかしながら不調が多発し一般病棟で対応しているが、QOLの大幅低下をきたしている。腎機能低下、心臓弁膜症、不整脈、甲状腺機能低下ほか。
3、専門病院/一般病院間で
  ①副作用の予測と実績の共有化によるQOL UPもしくは、予防
  ②これらが患者に見える事。
以上のシステム化と改善を希望します。