血液内科病棟へ引越し(2008年10月)

引越しの日が近づいて、そろそろ一回起き上がってみますか、と看護師に言われ、ベッドから降りようとした。ところが、寝たきりで、食事もせずに運動もしていなかった、僕の脚は自分のものとは思えないくらい細くなっていて、筋肉がおちていた。部屋にあるトイレに行こうとしたが、とても無理そうだったので、看護師が車椅子を持ってきてくれて、それに乗り移った。そしてトイレに行き、数日ぶりの便をし、立ちあがって、車椅子に戻ろうとした時に事件が起こった。いきなり目の前が真っ暗になり、自分の身体を動かせなくなり、助けて~と叫ぶと、そばに居た看護師が支えてくれた。そう、人生初の貧血を経験したらしい。訳のわからない僕はパニックになったが、「江尻さん、大丈夫ですよ、貧血だと思います」という声を聞いて、初めて正気に戻った。怖かった。

そして、いよいよ引越しの日になり、車椅子に乗り、エレベーターに何度か乗り、気が付いたら、別の病棟に来ていて、部屋に入る。前の部屋よりも太陽光が入らず、暗~い病室だった。そして二人部屋。テレビを見るのも、CDを聴くのも、イヤホン… 窮屈な生活が始まった。それと何より、白血球の数量が400に落ちていて、感染の危険が高かった。それにも拘わらず、隣の病人は、咳をしている。ベッドの脇には業務用と思われる、轟音の空気清浄機が設置されたが、効果は???で不安な一日が過ぎていく。白血球減少の影響で、口内炎が口腔内全体に生じ、口を動かすのが辛かった。白血球を増加させるための注射が始まった。筋肉注射で痛~い。でも定番の薬らしく、白血球が上がっていった。

医師はこのまま白血球が無くなってしまうのでは、と思っていた、と恐ろしいことを言っていたが、数値が改善されていくにつれ、口内炎も良くなるよ、とうれしいコメントをくれた。こういう小さなことがとてもうれしかった。この医師はいつも真面目な感じで、僕の細かい質問にも丁寧に答えてくれた。大好きだった。6コースの治療が全てこの医師だったら良かったのだが、病院の方針で、そういうことにはならないらしい。患者としては、不安だらけである…。 毎日、点滴の交換があり、抗がん剤と脳のむくみを取るためのグリセリンが一日中あった。 あと脳のポートへの抗がん剤注射があった。脳のポートへの注射は、ほとんど痛みがなく、それほど辛くなかった。ただ、点滴の方は、機械で注入されていき、動くと、そのラインが詰まってしまって、異常音を発生するやっかいのものであった。外の共用のお手洗いに行くのがおっくうになった。
そして、頭痛は相変わらず続いていた。骨が入っていないほうを下にして寝ると、脳が圧迫されるのか、強烈な頭痛に襲われる。ただ、症状を医師や看護師に伝えても、いや~脳外科じゃないので、わかりませんの一言。教授回診があっても、頭痛を訴えるが、やはりわかりませんとのこと。そして、血液データの話を医師が話して、終了。医師とのコミュニケーションがとれす、頭痛の不安で毎日一杯だった。脳外科の医師の訪問も要請したが、大病院はなかなか連携がうまくいかず、脳外科の先生が現れることは無かった。そんな中、救ってくれたのは看護師。自分担当の看護師という方が居るらしく、その人を捕まえて、訥々と話をした。話すことで、ストレスが解消されるということもあり、その看護師のおかげで、頭痛の苦痛も少しは楽になった。

病室では、妻が見舞いに来てくれるのだけが楽しみで、朝から、その時間を目指して、携帯で時間をつぶす毎日だった。そして、妻が来て、話をする。とは言っても、個室ではないので、ひそひそ声だが… 面会時間が終了して、妻を見送るのが辛かった。明日の朝まで、不安の中で過ごす。

化学療法1コース目は脳外科病棟で無事終了し、抜鈎(手術のときのホッチキスのような針を抜くこと)も終え、血液内科病棟へ引っ越しました。 化学療法の副作用で、白血球は400まで減少、口の中の粘膜が全部めくれて痛みで食べるのが辛く、全身薬疹が出ているような状態でした。 やっと慣れた脳外科病棟から環境が変わり、不安でいっぱいの夫。 夜中に不安感に襲われてパニックになる、と切々と私に訴える毎日でした。

その頃の私は、どん底まで落ちている夫を支えなきゃ、家で毎日留守番している子どもたちにもできる限り寂しい思いをさせちゃいけない、とにかく私が頑張らなきゃ、といった思いでいっぱいで、道を歩いているとき、お風呂に入っているとき、一人になると涙が溢れてくるけれど、夫や子どもたちの前では絶対その姿を見せちゃいけない、と元気の空回りのような感じだったと思います。

そんな状態を見かねて、病棟の看護師さんが、病棟を回る精神科のリエゾンチームがありますよ、と声をかけてくださり、即お願いしました。 血液内科の医師も、「病気だけを見ると確実に良くなってきているけれど、江尻さんが不安に思っていることは事実だから、そこは専門家にケアしてもらいましょう」と早速動いて下さり、精神科の医師とつながることができたことは、その後の闘病生活において本当に大きな支えとなりました。