はじめまして 2015-05-16 02:28:55


 夫は、2008年9月に中枢神経原発悪性リンパ腫という珍しい種類の悪性脳腫瘍であることが分かり、38歳で闘病生活が始まりました。当時、小学4年と6年の子どもを抱え、突然夫がいつまで生きられるか分からない状況に陥り、混乱の中にあった私は、病気のことが載っているサイトを調べたり、闘病記を検索したりする毎日でした。

 ところが、病気の説明は絶望的なことばかり、数少ない闘病記は途中で患者さんが亡くなって終わってしまっているものがほとんど。日々医師から治療方針などの決定を求められても、情報が少なすぎて判断できず、また、希望を持つこともできない状態でした。

 それから6年半が過ぎ、再発を繰り返しながらも奇跡的に寛解を保ち、生かされ続けている今、夫が高次脳機能障害など様々な後遺症を持ちながらも元気に会社に行き続けている現実が、もしかしたら同じ病気の方々を励ますことになるのでは、また、患者会などでもほとんど出会うことのない同じ病気の方々と情報交換ができるきっかけになるのでは、という想いから、ブログを書き始めることにしました。

 夫は記憶障害、注意障害、遂行機能障害、地誌的障害などなど色々な高次脳機能障害の症状があるため、6年も前のことを正確に思い出すことは難しいと思います。でも、患者本人の言葉に勝るものはないと思うので、夫の文章に私も少しずつ書き加える形ですすめていこうと思います。


発症まで 2008年9月 2015-05-16 02:33:45


 僕は、6年前の9月に脳腫瘍で倒れ、悪性リンパ腫との闘いがはじまった。

 2008年の夏、軽井沢に家族で避暑に行っていたとき、急に物事に対する意欲がなくなり、何をするのにも、時間がかかるようになった。当時、出始めた液晶テレビの設計・開発を担当する技術者であった僕は、超多忙を極めていた。急に周囲のものごとが奥まった感じになってしまい、鬱病かと思って、心配になっていた。ほどなくして、毎日の頭痛がはじまった。頭痛は普通に健康な状態でも発生するものだから、鎮痛剤を飲み続けて対処していた。妻には、バファリンと胃腸薬を外出した帰りに買ってきてもらうという生活が始まった。

 仕事に行っても、うまくいかないことが続き、これはもうダメだぁと思っていたところに産業保健部の方から面談の要請が来た。これで、少しは業務時間に制限がかかり、少しは楽な生活になるかと思い、嬉しかった。

 土日になり、仕事は休みで息子と電車に乗って、文化祭に行ったりしていた。ただ、頭痛とそれに伴う吐気を我慢しての、辛い付き添いだった。(とは言いつつも、息子はその学校に進み、楽しそうに学校生活を送っている。何かの縁があったとしか思えない。)

 次の日は日曜日で、朝から頭痛で動けず、休日急患センターに行く。そこで医師から、どこがどう痛いのですか? と尋ねられるが、激痛でどう痛いという問に答えられず、鎮痛剤を処方されたのみだった。家に戻り早速鎮痛剤を服用するが、効果なし、頭痛に耐えて、寝るまでの時間を過ごした。精神的な頭痛だとすると、こりゃ大変な痛みだなぁと思って次の日の朝を迎えると、また、頭痛がひどい。仕方なく会社を休み、家で様子を見ることにした。行きつけの内科に行くも、どこがどう痛いのですか、と聞かれて、とにかく全部がムチャクチャ痛いのですとしかいえず、漢方薬が処方された。家に戻って、食事をとろうと思ったが、気分が悪く、そのまま食堂の床に横になってしまった。妻が仕事から戻って来て、体調はどう?と尋ねられるが、最悪…としか答えられずに、床に寝てしまった。

 その姿を見て、これは大変と思ったのか、CT検査ができる病院にタクシーで連れていかれた。当直の先生がすぐにCTを撮影して下さり、撮影画像を見せられて説明が始まった。しかし、その画像は説明も不要なくらいの大きな腫瘍(5cm)がはっきり写っていた。

0011_初発画像8

 その写真を見たときに、あ~これなら1カ月くらい会社を休めるな~と少し嬉しかった。

 先生が説明した後、先生が、耳元で指を鳴らして、左耳の聞こえが悪くなっていることと、左目が見えにくくなっていることを指摘し、脳のむくみを指摘され、緊急入院の措置を取られた。そして、直後から、脳のむくみを取るためのグリセリンの点滴が始まった。これの効果は抜群で、点滴を注入している間は頭痛が無い。しかし、連続投与ができないので必ず、何時間に1回かの頭痛と闘う時間が来る。次の日から検査が始まった。とにかく脳腫瘍というのは、色々な種類があり、その判定をしないと治療ができない。MRIや、ガリウムシンチレーションなど、さまざまな検査を毎日実施した。僕の心の中では、この腫瘍は良性なのだろうか、それとも、悪性なのだろうか、ということが逡巡していた。医師が来るたびに、良性なのか、悪性なのか、と尋ねる毎日だった。すでにして、顔の認知能力は無くなっており、代わる代わる登場する医師に同じ質問をしたりして、江尻さん、それは先日お話ししたように、まだわかりません、と怒られたりもした。

 ある日、あまり親切では無さそうな医師が来て、悪性じゃないか、というようなニュアンスの話をして病室を去った。その時の衝撃は強く、妻に泣いて電話をした…。しかし、最終的な結果は告知されないまま、時間が経って行き、その後、良くわからないが、良性の髄膜腫ではないかという結論が出た。これは、手術をして腫瘍を切除する必要があるが、腫瘍の発生位置が脳の奥にあるため、身体に障害が残るだろうという説明があった。左目が見えなくなっても、生命がある方がいいだろう、と医師に言われ、手術を行うことを決意した。手術をするとなれば、医師の技術も重要で、医師選びが始まり、妻と母親の勧めで転院して、別の病院の教授の先生に切ってもらうのが良いだろうということになった。そのことを入院先のドクターに言った所、うちの病院は腫瘍ではなく血管が専門なので、それはその方が良いかもしれないと、好意的に転院を勧めてくれた。


 一ヶ月前くらいからやる気が起きないうつ状態が始まり、メンタルクリニックに連れて行かないといけないな、と思っていました。ちょうど私の仕事が忙しい時期で、落ち着いたら行こうと思っていた矢先、「お父さんが台所の床で倒れて動けなくなっている」、と息子からSOSの電話があり、急いで帰って夜間救急のA病院に連れて行きました。そこで分かったのはまさかの「脳腫瘍」。右脳に5センチの腫瘍があり、左無視、左聴覚↓、左麻痺があるとのこと。これで頭が痛かったんだ、どうしてもっと早く病院に連れて行けなかったんだろう、という申し訳ない気持ちと、明日からいったいどんな生活になるんだろうという不安と、何としてでも元気になってもらわなきゃ、という気持ちと、いろんな想いがグルグル回りながら、病院の暗い廊下で入院手続きを待っていたのを思い出します。

 A院での診断は、良性の髄膜腫。2ヶ月くらいの入院で大丈夫でしょう、手術も急ぐことはないと言われ、ホッとしました。




※次回「B病院へ転院」は、5月30日あたりに更新する予定です。

B病院へ転院 2008年10月 2015-05-31 04:00:11


さて、事は急げで、すぐに転院先の教授のスケジュールを押さえ、数日後に病院の教授室で会うことになった。

まずは、僕の状態を診て、それから対応を決めるのだろうと思って、心の準備は無く、先生の診察室に入った。そこで、先生は、脳の模型を出し、江尻さんはこの辺に腫瘍があります、という説明を受けた。が、全く理解できず。その後、先生は、撮影されたMRIを診て、う~ん、良性の髄膜腫という診断で合っていると思う、と言われた後、看護師を呼んで、今すぐ、部屋を用意してくれ、と依頼し、ICUのベッドが一床分空いているということで、明日から入院して、手術をするということを先生から言われ、びっくり。手術なんてしたことも無いのに、いきなり明日入院って…。でも教授の言うこと、逆らうわけにはいかず、もやもやしながら病院を出て帰宅した。

5.P1010911_脳腫瘍が見つかり緊急入院

そして、家で一泊し、入院の日の朝、異常な頭痛に襲われる。困ったと思い、元の病院に電話をし、グリセリンの点滴を入れてもらってそれから移動することにした。点滴が終了し、タクシーで転院先の病院に向かうと、ICUのベッドが用意されていて、着替えて、早速横になる。頼りの妻は面会時間が過ぎたため帰ってしまい、困り果てて、ナースに妻を呼んで下さい、と言うと、奥さんは帰られました。との冷たい一言。トイレに行きたいと言って、トイレに連れて行ってもらったのだが、その移動による頭への負担で、突然気分が悪くなり、トイレで嘔吐してしまう。嘔吐なんて、何年ぶりという感じだったので、ちょっとびっくり。

そして、看護師に付き添われてベッドに戻った。しかし、尿意がまた襲ってきて、ナースコールを押し、トイレに行きたいと告げたところ、尿器をわたされ、これでしなさいと言われ、仕方なく、ベッド上で尿器を使って、尿を足す。ただ、尿器を使ったことがなく、ほとんど全量、ベッドの上に流してしまう。江尻さん、尿器も使えないんですか(怒)というナースの声、奥から聞こえる、漏らしちゃったみたいよ、という嘲笑の話し声。なんだこの病院は???? という感じで入院初日が終わりました。



今思えば、転院先のB病院の医師は、最初から悪性だと分かっていたのでしょう。セカンドオピニオンを聞きに行ったその日に即日入院を勧められました。でも、良性だと思っていた私たちは、1泊でも自宅に帰ってから転院したいと希望して、一旦家に帰りました。

ところが、その夜から落ち着いていた頭痛がまた激しくなり、夜中にA病院に戻って点滴してもらい、頭痛が治まってからB病院に転院しました。 頭痛があるなら、手術は早いほうがいい、と2日後の緊急手術が決まりました。

入院時は一人で歩けたのに、翌日は更に頭痛がひどく嘔吐もあり、動くこともできなくなってしまいました。 手術前夜はさらに頭痛がひどくて意識が朦朧とする中で、尿器を渡されてもうまくできず、上のようなやり取りがあったようで、翌朝私が行くと尿で濡れたままのタオルケットにくるまり、悔し泣きしていました。

病院では様々な医師や看護師、医療スタッフの方々と出会いましたが、とても多忙な中、ほんの少しの気遣いで、患者も家族もどれほど救われるか、と何度も思わされました。感謝することも多い中で、この手術前夜のICUでの体験はワースト3に入るくらい辛かったようです。


※次回、「2回の手術」は6月14日(日)頃を予定しています。



 

2回の手術と血液内科への転科 2015-07-04 02:50:19



入院2日目、いよいよ手術の日、がんばって~という声とともに、手術室に送り出され、そこで全身麻酔をかけられ、意識は無くなった。

そして、気が付くと病室のベッドに、色々なコードや管をつけたまま寝かされていた。頭蓋骨も半分くらいが無くなっていた。また、寝返りも打てず、腰が痛かった。寝返りをうつためには、看護師に手伝ってもらわないといけなくて、ナースコールが必須。ところが、ナースコールが手許に無くなってしまい。仕方がなく、「看護婦さ~ん」と叫ぶ。しかし、病室は個室で、誰にも聞こえず、つらい腰痛と闘うしかなかった。僕の唯一の助け、女神、の妻との会話が一日の楽しみだった。もちろん、ベッド上では限られたことしかできず、メガネをかけることができなかったため(脳が手術で腫れていた)、まわりのものが見えなかった。そんな中で抗がん剤の投与は着々と進行していた。医師は、病気の真相を伝えたかったようだが、妻がもう少し様子を見てからにして欲しいと言ってくれて、良性だと思って、ベッドに寝ていた。

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術後の様子



そして、手術から数日後、MRIの画像をもって医師が説明してくれた。非常に抗がん剤の効きが良く、腫瘍が半分、体積比では8分の1になっていて、とても良く効いているとの説明があった(らしい)。が、すでに脳機能に障害が発生しており、その効果を全く理解できなかった。治療はボンプロトコール と言い、1ヶ月×6コースの計半年かかるらしい。これも、時間の感覚を失くしていたので、永遠に病院にいるような気になり、気が狂いそうだった。

手術の説明を妻から聞くと、教授は良性ではなく、悪性リンパ腫を疑っていて、腫瘍の切除も組織検査ができる程度になったらしい。その判断が的確で、すぐに抗がん剤の治療が始められ、脳機能の破壊が抑えられた。眼が見えなくなるとか、脅された手術だったが、とりあえず不自由は無さそうだった。脳外科に入院していたが、病院の方針で、悪性リンパ腫は血液のガンなので、血液内科で治療するというのが、方針らしく、血液内科の2人部屋への引っ越しが予定された。今まで個室で、妻とも携帯でも自由に話せたのに、2人部屋と言うと、何もできなくなってしまうし、パートナーとなる人はどんな人だろうとストレスも発生。

少なくとも脳の病気では無さそうだし、移植とかっていう言葉から、白血病かなぁなんて思ったりした。血液の病気は難しいのかな…なんて隣で考えていて、眠れなかった。




夫は右脳の深いところに腫瘍があったため、時間の感覚がありませんでした。 なので、手術は転院した2日後でしたが、本人の記憶では翌日になっているようです。

手術当日の朝、主治医より説明がありました。倒れた日にA病院で撮ったCTと前日に撮ったCTでは腫瘍が大きくなっている、髄膜腫なら短期間に大きくなることはないし、こんなに頭痛がひどい例は見たことがないので、良性の髄膜腫ではなく悪性リンパ腫の可能性もあること。手術中に検査に出し、髄膜腫だったら取れるだけ取るので手術時間は長くなる、悪性リンパ腫なら治療のためのポートを埋め込み浮腫を抑える処置をして閉じるので、手術時間は短くなるとのことでした。

病院のロビーで待つのはとても辛い時間でしたが、良性なら長時間かかるということで「早く終わらないでほしい」と祈りつつ待っていました。

13:00にオペ室に入室し、終わったのは19:00。6時間が長いのか短いのか、判断がつかないまま、主治医より説明がありました。やはり悪性リンパ腫だったこと、その可能性が高かったので、できるだけ脳にダメージが少ない術式に切り替えて手術してくださったこと、できるだけ早い段階でメソトレキセート大量投与を開始すれば、5年たってもピンピンしている人もいるから悪性といっても希望を持っていいこと、治療は血液内科に転科して行われることを聞きました。

10.初発治療化学療法
開始した化学療法 治療薬


本人は良性だと信じたまま、「先生、ありがとうございました。これから恩返しの人生を生きなきゃ」とはっきり喋っていて、少し安心すると同時に、悪性だと悟られないよう明るくふるまっていました。

このあたりは、本人はしばらく記憶がとんでいるのですが、手術翌日、病院に行くとICUから出て一般病室に移っているものの、話しかけても前日のようなはっきりとした会話もできず、意識が朦朧とした状態。数時間のうちにどんどん意識レベルが下がり、脳外科の医師から、前日の手術で脳が腫れて脳室がつぶれてしまっている。このままでは数時間から1日で脳ヘルニアになり、そうなると二度と元に戻らないから、頭蓋骨を外す手術を考えている、と提案される。メリットデメリットがあり、この手術が江尻さんにとっていいことかどうか迷っていますと言われるが、とりあえず命が助かるならばお願いします、と伝えました。本人は意識のない中で、治療の選択を求められるのは素人の家族なのです。責任重大ですが、そのときは、今死んじゃうよりは少しでも長く生きられる道を、今の頭痛が少しでも楽になるのなら、と思い、二度目の緊急手術を選びました。

メソトレキセート大量投与という化学療法を行う予定の血液内科の医師も病室に来られ、手術後できるだけ早期からメソトレキセートの投与を始めること、大変な治療ですが一緒に頑張りましょう、と言ってくださり、私も泣いている場合じゃない、しっかりしなきゃ、と気持ちを引き締めました。

頭蓋骨を外す緊急手術の翌日、ICUにいるときから、メソトレキセート大量投与(血液内科ではボンプロトコルという)が始まりました。



本人への告知(2008年10月) 2015-08-12 11:51:07



 手術後に私は医師から悪性だったことを聞いていましたが、顔も腫れ上がり意識も朦朧としていた術後の夫には、悪性だったことを言えずにいました。もともとメンタルが弱く、自分が癌だと知ったらそのショックで生きる希望も失ってしまうんじゃないか、というタイプだったので、先生にも術後落ち着くまでは本人には言わないでほしい、と伝えていました。

 毎日、時々覚醒するたびに「悪性じゃないよね?」と聞かれて「大丈夫だよ」と答えるのも嘘をついているようで苦しい日々でした。

SONY DSC

初発治療薬


 一度目の手術から5日後、CTを撮ったところ、「化学療法が劇的に効いて5cm以上あった腫瘍が4日目にして1cm程に縮小している」という嬉しい報告を受け、医師に「悪性だったけれども治療がとてもよく効いていて充分根治できる可能性がある」という希望の持てる告知をしてもらえないだろうか、とお願いしたところ、快諾してくださり、病室でCTの画像を見せながら告知してくださいました(前回の夫の記事で触れています)。


 夫はショックを受けながらも、先生に「あと50年生きたいです」と言い、夫と同い年の先生は「それは寿命としてどうかな~?」と笑いながら「まだまだ充分生きられますよ」とおっしゃってくださいました。

8.DSC_0452_初発治療中
治療中の直さん

 このやりとり、本人の記憶には一部しか残っていないようですが、とりあえす明るい告知に成功。 これで隠し事はなく、一緒に頑張っていける、と気持ちが軽くなった日でした。








もう一つの告知…(術後8日目) 2015-09-26 06:35:10



前回の告知は手術を担当した脳外科チームの医師にお願いしたのですが、それから3日後、今度は実際に治療(化学療法)を担当する血液内科の医師から本人に詳しい説明をしたい、とのこと。


 前回の告知後、やはり精神的に落ち込みが激しく泣いてばかりいる夫に、これ以上厳しい話は聞かせたくない、と私が言うと、「血液内科での治療は副作用もありかなり厳しいものになる。患者さん本人がすべて理解して治療に臨まないと上手くいかない。もし奥さんが全て本当のことを伝えたくないと言うなら、奥さんに部屋から出て行ってもらいます」と厳しく言われ、いずれは知らなければいけないことなので了承しました。


 ボン・プロトコルというメソトレキセート大量化学療法(多剤併用)の説明、数々ある恐ろしいような副作用の説明、現時点での5年生存率は50%~60%、そちらに入れるよう勝ちに行きましょう、という内容でした。


 厳しい内容でしたが、夫の理解力も落ちていてそれほど正確には理解できなかったようでした。  厳しい現実でも、とにかく前を向いてポジティブに! せっかく神様からいただいた生命を精一杯生きたいと夫が思えるように、できる限り支えていこうと思いました。



血液内科病棟へ引越し(2008年10月) 2016-01-21 11:41:45


引越しの日が近づいて、そろそろ一回起き上がってみますか、と看護師に言われ、ベッドから降りようとした。ところが、寝たきりで、食事もせずに運動もしていなかった、僕の脚は自分のものとは思えないくらい細くなっていて、筋肉がおちていた。部屋にあるトイレに行こうとしたが、とても無理そうだったので、看護師が車椅子を持ってきてくれて、それに乗り移った。そしてトイレに行き、数日ぶりの便をし、立ちあがって、車椅子に戻ろうとした時に事件が起こった。いきなり目の前が真っ暗になり、自分の身体を動かせなくなり、助けて~と叫ぶと、そばに居た看護師が支えてくれた。そう、人生初の貧血を経験したらしい。訳のわからない僕はパニックになったが、「江尻さん、大丈夫ですよ、貧血だと思います」という声を聞いて、初めて正気に戻った。怖かった。

そして、いよいよ引越しの日になり、車椅子に乗り、エレベーターに何度か乗り、気が付いたら、別の病棟に来ていて、部屋に入る。前の部屋よりも太陽光が入らず、暗~い病室だった。そして二人部屋。テレビを見るのも、CDを聴くのも、イヤホン… 窮屈な生活が始まった。それと何より、白血球の数量が400に落ちていて、感染の危険が高かった。それにも拘わらず、隣の病人は、咳をしている。ベッドの脇には業務用と思われる、轟音の空気清浄機が設置されたが、効果は???で不安な一日が過ぎていく。白血球減少の影響で、口内炎が口腔内全体に生じ、口を動かすのが辛かった。白血球を増加させるための注射が始まった。筋肉注射で痛~い。でも定番の薬らしく、白血球が上がっていった。

医師はこのまま白血球が無くなってしまうのでは、と思っていた、と恐ろしいことを言っていたが、数値が改善されていくにつれ、口内炎も良くなるよ、とうれしいコメントをくれた。こういう小さなことがとてもうれしかった。この医師はいつも真面目な感じで、僕の細かい質問にも丁寧に答えてくれた。大好きだった。6コースの治療が全てこの医師だったら良かったのだが、病院の方針で、そういうことにはならないらしい。患者としては、不安だらけである…。 毎日、点滴の交換があり、抗がん剤と脳のむくみを取るためのグリセリンが一日中あった。 あと脳のポートへの抗がん剤注射があった。脳のポートへの注射は、ほとんど痛みがなく、それほど辛くなかった。ただ、点滴の方は、機械で注入されていき、動くと、そのラインが詰まってしまって、異常音を発生するやっかいのものであった。外の共用のお手洗いに行くのがおっくうになった。
そして、頭痛は相変わらず続いていた。骨が入っていないほうを下にして寝ると、脳が圧迫されるのか、強烈な頭痛に襲われる。ただ、症状を医師や看護師に伝えても、いや~脳外科じゃないので、わかりませんの一言。教授回診があっても、頭痛を訴えるが、やはりわかりませんとのこと。そして、血液データの話を医師が話して、終了。医師とのコミュニケーションがとれす、頭痛の不安で毎日一杯だった。脳外科の医師の訪問も要請したが、大病院はなかなか連携がうまくいかず、脳外科の先生が現れることは無かった。そんな中、救ってくれたのは看護師。自分担当の看護師という方が居るらしく、その人を捕まえて、訥々と話をした。話すことで、ストレスが解消されるということもあり、その看護師のおかげで、頭痛の苦痛も少しは楽になった。

病室では、妻が見舞いに来てくれるのだけが楽しみで、朝から、その時間を目指して、携帯で時間をつぶす毎日だった。そして、妻が来て、話をする。とは言っても、個室ではないので、ひそひそ声だが… 面会時間が終了して、妻を見送るのが辛かった。明日の朝まで、不安の中で過ごす。


化学療法1コース目は脳外科病棟で無事終了し、抜鈎(手術のときのホッチキスのような針を抜くこと)も終え、血液内科病棟へ引っ越しました。 化学療法の副作用で、白血球は400まで減少、口の中の粘膜が全部めくれて痛みで食べるのが辛く、全身薬疹が出ているような状態でした。 やっと慣れた脳外科病棟から環境が変わり、不安でいっぱいの夫。 夜中に不安感に襲われてパニックになる、と切々と私に訴える毎日でした。

その頃の私は、どん底まで落ちている夫を支えなきゃ、家で毎日留守番している子どもたちにもできる限り寂しい思いをさせちゃいけない、とにかく私が頑張らなきゃ、といった思いでいっぱいで、道を歩いているとき、お風呂に入っているとき、一人になると涙が溢れてくるけれど、夫や子どもたちの前では絶対その姿を見せちゃいけない、と元気の空回りのような感じだったと思います。

そんな状態を見かねて、病棟の看護師さんが、病棟を回る精神科のリエゾンチームがありますよ、と声をかけてくださり、即お願いしました。 血液内科の医師も、「病気だけを見ると確実に良くなってきているけれど、江尻さんが不安に思っていることは事実だから、そこは専門家にケアしてもらいましょう」と早速動いて下さり、精神科の医師とつながることができたことは、その後の闘病生活において本当に大きな支えとなりました。

1コース終了後の休薬期間(2008年10月後半) 2016-02-21 11:34:49


面会時間が終了して、妻を見送るのが辛かった。明日の朝まで、不安の中で過ごす。
長い夜。毎晩夢を見た。その夢の内容は、ピアノの演奏会のステージに居る夢、レコーディングをするという夢、毎日のようにピアノの夢を見た。必ず、ステージに立っていて、弾かなければいけないのだが、弾ける曲が思い出せず、弾く直前に目が覚めるというものだった。あまり良い夢ではないが、退院したら、ピアノを弾くぞ~という意識が確かになった。

頭痛は続いており、脳の腫瘍が大きくなっているのでは、という不安が大きかった。
医師に頭痛を訴えても、鎮痛剤を処方されるだけで、脳の検査をしてほしかったが、それは4コース終了時ということに決まっており、MRI検査は、脳外科と異なり非常に少なかった。さらに言うと、血液内科の場合には、医師が読影できないため、放射線科の医師に読影を依頼して結果が知らされる。と言った難儀な状況では、簡単にMRI検査をすることが許されず、4コースが終了した後で効果の確認をするということになった。
髪の毛が抜けまくり、怖かった。結局全部剃髪してしまった。思いがけず、気持ちが良かった。

食欲は、日と時間によって異なった。病院食を完食することもあれば、食欲がなく、食べられないこともあった。とにかく、24時間点滴があり、トイレも欠かさず行かなければならず、睡眠不足が続いていた。2コース開始までは治療はしなくて良いので、退院しても良いのだが、白血球の値が低く、院外で感染したら困るという理由で、病院で引き続き2コース目の治療が始まった。


この時期、頭痛が続き不安でいっぱいだった夫の強いリクエストにより、脳外科の診察を受けられることになりました。
喜んで脳外科に行くと、それまで担当してくださっていた医師ではなく、外来の当番医の医師の診察で、カルテを見ながら「腫瘍は手術で全部とりましたからね…。大丈夫ですよ」と言われ、あっという間に診察終了。

夫の腫瘍は手術で取っても仕方ないタイプで、手術で取ったのは生検に必要な分だけ、残りは抗がん剤で叩いているという状況だったので、この医師のコメントには驚きと落胆の気持ちでいっぱいになりました。大きな大学病院だと、こんなに不安を抱えていても、手術に関わってくださった先生の診察を受けることもできず、患者の病名も病状も理解していない医師のとんちんかんなコメント(失礼)しか聞くことができないんだ、と本当にがっかり。夫の不安は更に大きくなるばかりでした。

後々分かったことですが、この頃すでに高次脳機能障害の諸症状があっても、それが手術や腫瘍の後遺症とは分からなかったため、夫は自分がこのまま何もかもできなくなってしまうんじゃないか、という不安も抱えてひたすら落ち込んでいました。頭痛が続き腫瘍が大きくなっているんじゃないかという不安、高次脳機能障害ということも知らなかったので機能がどんどん失われるのではないかという不安。不安に押しつぶされそうな毎日だったようです。
10月末、リエゾンチームの先生が訪問して下さり、溜まっていた不安を聞いてもらえ、継続的にフォローしてもらえることになりました。

同じ頃、血液内科の医師から再度MRIの説明を受けることができ、腫瘍が5分の1に縮小していること、脳のむくみも取れてきていることを時間をかけて説明していただいたことで少し落ち着いたようでした。

入院してから誰とも会いたがらなかったのですが、少し落ち着いたので、会社の上司が面会に来てくださいました。「会社のことは心配せずゆっくり休んでください」と言っていただき、夫はもちろん私もとてもホッとしたのを覚えています。人事の方まで来て下さり、休職中のお給料のこと、傷病手当金のことなども詳しく説明してくださったので、ひとまず経済的な心配もなくなりました。働き盛りで急に倒れ、何もかもが暗いトンネルの中で手探りな状態の私たちに少しずつ光がさしてきた気がしました。



化学療法2コース目(2008年11月前半) 2016-04-02 09:15:50


2コース目に入ったが、抗がん剤の副作用は消えず、相変わらず、毎晩気分が悪かった。

吐き気は無かったが、睡眠に障害が出た。コマ切れ睡眠の毎日で、体調は良くなかった。朝は気分の悪さはそれほどでもない。たぶん、脳の骨が無く、起き上がる度に脳に圧力がかかるため、生じていたものと思われる。身体のリハビリも始まったが、とても頭痛に耐えられず、効果は無かった。毎日の点滴による抗がん剤投与と、脳への髄液注射による投与が続いた。

具合は特に良くなったわけではないが、11/5(土)2コースの抗がん剤投与が終了した。




2コース目は1コースとそう変わらない投薬内容でしたが、1コースに比べると口内炎もなく、副作用は軽くすみました。1コースは術後すぐだったので、かなり大変だったのだと思います。

 脳外科でお世話になった医師が病室に来て下さり、脳のむくみも取れてきたので、グリセリンの点滴も終了となり、外した頭蓋骨を戻すのは6コース終了後にしましょう、ということになりました。

B病院に転院して1ヶ月余り。無我夢中でしたが、普通に話ができて、自分の足で歩けて、ご飯も食べられて、1ヶ月の回復ぶりに感謝、感謝でした。

 この頃、急に生活が一変して留守番ばかりしていた子どもたちも、我慢の限界が来ていたのでしょう。息子が学校で友達と揉め事を起こしたり、娘が寂しいと大泣きしたり…。みんなみんな頑張っていました。



待ちに待った一時退院! (2008年11月後半) 2016-04-11 10:49:39


いよいよ、11/14の採血の結果を見て、一時退院の許可が出た。全身から喜びが溢れた。家に帰れる、家はどんな感じだろうか? ピアノが弾ける、夢は膨らむ。
何を食べようか…。もし熱が出た場合には病院の代表に至急連絡するようにということと、サバと牡蠣は食べないようにと注意を受け、11/14(金)退院した。
ウキウキで病院の外に出て、記念撮影をする。そしてタクシーに乗り込んだ。

家まで40分くらいの道中、窓から流れる風景をみていたが、とても怖かった。というのも、流れる風景が全く認識できず、目がチラチラするだけだった。脳の手術をして、腫瘍も残っているので仕方がないのだろうと思った。家に帰って1日目、半年ぶり家ではどう過ごしたら良いのかわからなかった。
子どもたちと遊ぶこともできず、居場所がなかった。リビングのテレビをみんなで視たが、僕だけ映像についていけず、がっかりした。大好きだったテレビも視られず、悲しい帰宅だった。

そして、次の日11/15(土)昼に会社の同僚など関係者が我が家を訪問して、お見舞いに来てくれた。じっと椅子に座って話をしたが、体力的な問題もなく、比較的安定していたので、みんなも安心してくれた。夜は、久しぶりに料理をし、お好み焼きを焼いた。特に問題なく、以前と同じようなお好み焼きができた。

11/17(月)妻が一人で外出してしまった。とても寂しく不安だった。そしてこの日は、入院中から計画していた、カムジャタンという韓国の鍋料理を作る。ネット上のレシピで作ったが、大好評。嬉しかった。

11/18(火)退院後初めての診察があり、タクシーとバス、電車を使って通院。手のしびれについて、医師に尋ねると、オンコビンという抗がん剤の副作用とのこと、すぐに良くなるよ!と言われ、安心した。しびれたままでは、ピアノが弾けないから…。そして次の治療のための入院について、病院から電話があるので、自宅で待っていて欲しいと言われた。我が家に2台あった電話機では、取りきれないかということで、2台足して、どんな電話でもどこに居ても逃さない体制にした。(実際は、何度もかけてくれるらしい… )目の見え方がおかしく、このままでは…と不安になった。これも腫瘍のせいで、実際は腫瘍の消失と同時に気にならなくなった。とにかく、毎日不安なことばかり考えてしまう。気を紛らわせるために、妻が駅まで行こう、と誘ってくれる。ついて行っても以前のイメージとは違っていて、不安になってしまう。

11/22(土)子供たちの学芸会に行く。でもやっぱり不安。見ても、まったく理解できず、ついていけない自分があり不安になる。学芸会に行って、趣味の写真をたくさん撮るが、これを将来見るときに自分の命があるのかどうかで、不安になる。非常に精神状態が良くない。ということで、次の入院の時に、精神科医師の訪問治療を受けるように、言われた。
何だか生きている意味が感じられなくなった。死にたい、って思った。

11/23(日)中学校からの友人2人が我が家に来てくれた。病気のことを全て話せる友人で お弁当の吉野家の牛丼を3人で食べ、元気になった。とてもうれしかった。
昨日、息子に怒られた。「お父さんは元気だし、死ぬなんて言ってはいけない」と。確かにその通りかもしれない。息子に励まされ少し元気を取り戻す。
ただ、相変わらず、見たものの認識能力はおかしい。生命はあっても、心が無いとなぁ…。元通りの自分に戻る自信が無い。どうなってしまうのだろうか…不安で一杯の生活だ。5年生存率も50%だし死を覚悟しながらの生活だった。家に居てもすることが見つからず、ベッドで寝ている毎日だった。妻はそんな僕を見かねて、外に誘いだそうとしてくれたのだが、頭蓋骨の入っていない状態で動くと、脳圧の変化が激しく、強烈な頭痛に襲われた。頭痛薬を飲むとその瞬間は収まるのだが、眠気が来る。そして眠ってしまうと、起きぬけの頭痛に悩まされる。という悪循環のサイクルに陥ってしまうので、頭を動かさずに起きているという生活を送っていた。テレビと音楽を聴いて、毎日生活をしていた。

妻が出かけると、僕の寂しさは頂点に達し、不安で涙が出て仕方がなかった。


待望の一時退院が決まり、病院に迎えに行くと、「家の周りが思い出せない。家の間取りも思い出せない」と落ち込んでいました。
タクシーに乗ると、景色が速すぎて怖い、家に帰るとテレビを見てもついていけない、子どもたちの声はうるさい、街に連れ出しても、慣れ親しんでいるはずの道も方角も分からない、など、以前の自分と変わってしまったことに落ち込み、「もう病院に戻ったほうがいいかも」と言ったりもします。
そんな夫を子どもたちと励ましながらの生活でしたが、久々の4人揃っての家での日々はやはりホッとしました。