平成25年1月10日、右乳の下の方がグジョグジョしてきたので、乳腺症が悪化したかと思いS病院の外科へ行きました。患部をみるなり「乳がん末期ですね、この状態で3ヶ月もった人はいません、いままでの経験上・・・」。
いろいろ検査をし、CT画像やエコー検査画像やら血液検査等々・・・何がなんだか、疲れはてました。結果は変わりなく、乳がん末期ステージⅣ余命3ヶ月。「うちでは手におえないし何もできないから、K大学に紹介状を書きますから、すぐに行って下さい」といわれ、もうがん宣告されたので、まな板のこいって感じ。とにかくすぐに行き、また同じ検査、検査、その結果「余命3ヶ月、抗がん剤がきいて、がんが小さくなって切っても長くて3年だね、抗がん剤があわなかったらすぐ死ぬよ、どうする?」ですって。頭にきたので、それを聞きにきたのだと怒ってやりました。
患部をみるなり、「乳がん末期ですね、この状態で3ヶ月もった人はいません…
私の母は、20年前、卵巣がんがもとで…
私の母は、20年前、卵巣がんがもとで旅立ちました。私はその13年後、乳がんなど経験して今に至ります。母のがんを知った時、私だったら良かったのにと何回も何回も思いました。私のがんが確定した時は、(父でも、兄でも、夫でもなく)私で良かったと思いました。鏡で気づき、しこりを見つけたとき『ああ、そうか』と心の中で思っただけです。しこりを乳房生検でとり、結果は簡単に教えてくれました。『やはり、がんでした。』母の時には説明がなく、手術の後『何なの、私は何だったの?がんだったの?』と何回も強く聞かれ、娘の私が『そうなの』と答え、後で担当医に『話しちゃったの?』と言われました。(ナースセンターで私に復水にがん細胞がばらまかれていると話しているのに)外科の手術も受け、担当医が替わり、覚悟する時期に来ているのもわからずオロオロしていて,亡くなる前日、母の様子が昨日と違うと婦長に話したら、『先生を呼び出して、わざわざ聞くことですか?』と言われ、心を残して家に帰ったら、翌日未明に呼び出され数時間で逝ってしまいました。恥ずかしそうに、『あのね、パステルカラーのパジャマを着たいの』と、初めて言われ、急いで求めに行き、洗い乾かして持って行った翌日でした。いまは、希望すれば充分説明が受けられます。『お気の毒としか言いようがありません』なんて終わり近くに言う前に、現実をその場、その場で知らせてほしかったです。ホスピスが身じかになり、在宅医療も進んでいる時代になりましたが、2カ月間、何も食べられなかった母と家で静かに過ごすことができなかったことを今も思い、母に申し訳なかったです。
あまりにもストレートな言い方に衝撃…
11年前に胃がん。告知を一人で受けた時に、あまりにもストレートな言い方に衝撃を受けた。「スキルス」の意味を聞いたら、「○○○○さんと同じがんです」と有名人を引き合いに出された。死んだ人と一緒にしてほしくない。「胃がなくなったらどうやって食べるのですか?」と聞いたら、「食べることより生きることが大切だろ!」と怒られた。なぜ怒られなければならなかったのか、今もわからない。2年前に別の県に住む実母が胃がん宣告を受けたが、手厚い告知を受けているのを見て、とてもうらやましかった。家族のいるところで「がんとはこういう病気です」と丁寧な説明を受けていた。これも地域間格差? 秋田は病院を選ぶことができない。家族のことを考えると、近くの病院しか選べなくて悲しかった。
希少がん患者を集めた会合を希望します…
私のがん種は希少がんです。10万人に1人と云われ、ほとんど身の回りに同病の人はいません。
去年から社会福祉センターの委員からご紹介され、リンパ腫患者2人と知り合いになりました。2人とも男性でなかなかコミュニケーションを持つ機会が少ないのが残念でなりません。もう少しいろいろな団体で希少がん患者を集めた会合が開かれることを希望します。
またリンパ腫の勉強会も3か月~6か月で良いので定期的に会合があると良いと思います。
夫の余命告知を私は一人で医師から伝えられました…
夫の余命告知を私は一人で医師から伝えられました。「治療しなければ余命半年、治療しても1~2年」。元気でしたから信じませんでしたが、結果として医師の言葉に間違いはありませんでした。今は、正確に迷いなく言ってくださったことに納得しております。「治療しても1~2年」は本人には最後まで伝えることができませんでした。それがよかったのかどうかはわかりません。しかし、夫は自ら死期を正確に悟っていました。側にいた私はそれで救われました。
なぜかショックというよりも、なぜか普通に受け止めて…
私は今からちょうど三年ほど前、胃に膨満感を頻繁に感じていたことから胃カメラを飲み、胃がんであることが発覚しました。胃上部スキルスの4型、ステージがⅢCというものでした。
お医者様からこのことを告げられ、あまりに受け入れがたい大きな現実に直面するなかで、私はショックというよりも、なぜか普通に受け止めていました。なんだかふわふわと現実離れした空間の中にいるようでした。手術前の検査を終えた時点では、開腹手術以外の手段はなく、それさえも転移などがあればできなくなるという可能性がありました。いきなり知ったこのような現実を私も家族もただただ受け止めるしかなく、手術が行われました。
幸い先生が手を尽くして下さり、8時間に及んだ手術は輸血もすることなく成功しました。その内容は胃を全摘出、脾臓も取り、十二指腸を閉じて食道と小腸をつなぐというものです。また33個のリンパを取ったのですが、そのうち9個は転移していたということでした。
現在の治療はホルモン剤1日1ヶと、3か月毎の検査をしており…
昨年(2013年)の6月、乳がんの告知をうけ、7月25日に手術しました。
幸いに、しこりは8㎜(自分でみつけた)と小さく手術も傷口13針位ですみました。
術後、ますいの為か2、3日はき気に悩まされましたが、痛みもほとんどなく、現在の治療はホルモン剤(アナストロゾール)1日1ヶと、3か月毎の検査をしております。
子宮がんの心配もあったので、1年間、3か月毎に検査をうけましたが、乳がんの手術以上につらく途中で検査を受けるのやめようかと思いました。
1年に1回の検査になったのでホッとしています。
母も兄もガンで亡くなっているので、常に転移のことが心配で気になりますが、日常生活は運動(太極拳・卓球・バドミントン 1時間半程度)趣味の編物、書も続けておりましたが、半月前に5時間ほど記憶が無くなり診断は、一過性健忘症でした。
その時も頭に転移したんじゃないかと考えたり、感情が高ぶりイライラしてつい主人にあたってしまいヒステリックになったりします。
運動のし過ぎでつかれたのかなーと反省したりしますが、性格的にじっとしていられないので、又運動等して、外に出かけるようにしたり。でもゆったりしたほうが良いのかなーと思ったり、少し悩んでおります。
私の方から「がんですか?」と聞きました。先生は「はい…
知人の先生が診療所を再オープンすることになり、そのお祝いを兼ねてエコー、胃カメラ、肺のレントゲン、骨密度、等の検査をして頂きました。その結果、「肺もちょっと怪しいけれど、それよりエコーで肝臓に白いものがある。総合病院で詳しく診てもらったほうが良いでしょう」と言われ、早速近くの総合病院に行き診て頂きました。
診察室で、先生が「今日は一人でいらしたのですか?」、私は「はい」と答えましたが、何か言い難くそうな感じを受けましたので、私の方から「がんですか?」と聞きました。先生は「はい、そうです。7個ほどあります。」私は絶句して、「ええっ7個も!ほうっておいたらどうなるんですか?」と聞きました。
先生は「3年以内に治療が難しくなります。今だったらラジオ波で簡単に焼いて取ることが出来ます。」と言われました。
私は子供も無いし、年齢も70歳(3年前)。いつ死んでも良い年。どうしようかと悩みましたが、取り敢えず姉に相談しました。姉は「あ・・・そうかぁ、ストレス貯めやすいからなあ、あんたは。私はそんな病気にはなれへんと思うわ。」
私が「兄ちゃんも前立腺がんと言われた時、泣いていたで」と言うと、「そんなことあった?忘れたわ。」とケロリとしています。太っ腹の姉、がんになるのは私自身のせいとあきらめました。
妹にも相談しましたら、妹は「やっぱり治療した方が良いと思う。決めるのは姉ちゃんやけど。」
考えたら、母も胃がんと言われて85歳の時、「まだ一度も手術したことないから、いっぺんしてもらうわ」と言っていたのを思い出しました。今思うと勇気のある母だったなと思います。
私も頑張って一度やってみようと決心し、紹介して頂いた病院でラジオ波の処置を受けることに決めました。
悪い状態で発見されたということです。全く予想していな…
新人癌患者です。新人ではありますが、ありがたくないことに癌はかなり強力です。 今年1月20日 に、50歳で前立腺癌を宣告されました。
昨年、秋も深まるころから残尿感を感じ始め、12月22日の朝に一時的にですが排尿できない (したいのにおしっこが出ない) 状態になりました。30分ほどで排尿できるようになり、その後2~3回排尿して通常の状態に戻ったのですが、これはおかしいと思い 12月24日に総合病院の泌尿器科を受診しました。その日は、エコーチェックで前立腺肥大の診断を受け、念のため採血をして前立腺癌マーカー(PSA)を調べてもらうこととして帰宅。そして今年に入って、PSA値が226と異常に高いことが判明し、触診結果との総合判断により冒頭の癌宣告となった次第です。
その後、立て続けにCT、MRI、生検、骨シンチを受け、2/3に「前立腺癌、T3b, N1, M0, Gleason Score=5+4=9, Stage D1」と確定しました。おさらいしてみますと、
T3b:原病巣が前立腺被膜を超えて精嚢まで浸潤あり。
N1:所属リンパ節転移あり。
M0:遠隔転移なし。私の場合は骨、内臓とも転移なし。
Gleason Score=5+4=9:悪性度かなり高い。
Stage D1:4段階評価で最も悪いD。最終段階D2の一歩手前。
かなり悪い状態で発見されたということです。全く予想していなかった結果でかなり驚きました。元々は妻、息子、娘の4人家族でしたが、子供2人が家を出て遠地の大学に通い始めて寂しくなったなと感じてから、さほど間を置くことなく癌宣告を受けることとなってしまいました。