B病院へ転院 2008年10月

さて、事は急げで、すぐに転院先の教授のスケジュールを押さえ、数日後に病院の教授室で会うことになった。

まずは、僕の状態を診て、それから対応を決めるのだろうと思って、心の準備は無く、先生の診察室に入った。そこで、先生は、脳の模型を出し、江尻さんはこの辺に腫瘍があります、という説明を受けた。が、全く理解できず。その後、先生は、撮影されたMRIを診て、う~ん、良性の髄膜腫という診断で合っていると思う、と言われた後、看護師を呼んで、今すぐ、部屋を用意してくれ、と依頼し、ICUのベッドが一床分空いているということで、明日から入院して、手術をするということを先生から言われ、びっくり。手術なんてしたことも無いのに、いきなり明日入院って…。でも教授の言うこと、逆らうわけにはいかず、もやもやしながら病院を出て帰宅した。

5.P1010911_脳腫瘍が見つかり緊急入院

そして、家で一泊し、入院の日の朝、異常な頭痛に襲われる。困ったと思い、元の病院に電話をし、グリセリンの点滴を入れてもらってそれから移動することにした。点滴が終了し、タクシーで転院先の病院に向かうと、ICUのベッドが用意されていて、着替えて、早速横になる。頼りの妻は面会時間が過ぎたため帰ってしまい、困り果てて、ナースに妻を呼んで下さい、と言うと、奥さんは帰られました。との冷たい一言。トイレに行きたいと言って、トイレに連れて行ってもらったのだが、その移動による頭への負担で、突然気分が悪くなり、トイレで嘔吐してしまう。嘔吐なんて、何年ぶりという感じだったので、ちょっとびっくり。

そして、看護師に付き添われてベッドに戻った。しかし、尿意がまた襲ってきて、ナースコールを押し、トイレに行きたいと告げたところ、尿器をわたされ、これでしなさいと言われ、仕方なく、ベッド上で尿器を使って、尿を足す。ただ、尿器を使ったことがなく、ほとんど全量、ベッドの上に流してしまう。江尻さん、尿器も使えないんですか(怒)というナースの声、奥から聞こえる、漏らしちゃったみたいよ、という嘲笑の話し声。なんだこの病院は???? という感じで入院初日が終わりました。

今思えば、転院先のB病院の医師は、最初から悪性だと分かっていたのでしょう。セカンドオピニオンを聞きに行ったその日に即日入院を勧められました。でも、良性だと思っていた私たちは、1泊でも自宅に帰ってから転院したいと希望して、一旦家に帰りました。

ところが、その夜から落ち着いていた頭痛がまた激しくなり、夜中にA病院に戻って点滴してもらい、頭痛が治まってからB病院に転院しました。 頭痛があるなら、手術は早いほうがいい、と2日後の緊急手術が決まりました。

入院時は一人で歩けたのに、翌日は更に頭痛がひどく嘔吐もあり、動くこともできなくなってしまいました。 手術前夜はさらに頭痛がひどくて意識が朦朧とする中で、尿器を渡されてもうまくできず、上のようなやり取りがあったようで、翌朝私が行くと尿で濡れたままのタオルケットにくるまり、悔し泣きしていました。

病院では様々な医師や看護師、医療スタッフの方々と出会いましたが、とても多忙な中、ほんの少しの気遣いで、患者も家族もどれほど救われるか、と何度も思わされました。感謝することも多い中で、この手術前夜のICUでの体験はワースト3に入るくらい辛かったようです。

※次回、「2回の手術」は6月14日(日)頃を予定しています。

発症まで 2008年9月

僕は、6年前の9月に脳腫瘍で倒れ、悪性リンパ腫との闘いがはじまった。

 2008年の夏、軽井沢に家族で避暑に行っていたとき、急に物事に対する意欲がなくなり、何をするのにも、時間がかかるようになった。当時、出始めた液晶テレビの設計・開発を担当する技術者であった僕は、超多忙を極めていた。急に周囲のものごとが奥まった感じになってしまい、鬱病かと思って、心配になっていた。ほどなくして、毎日の頭痛がはじまった。頭痛は普通に健康な状態でも発生するものだから、鎮痛剤を飲み続けて対処していた。妻には、バファリンと胃腸薬を外出した帰りに買ってきてもらうという生活が始まった。

 仕事に行っても、うまくいかないことが続き、これはもうダメだぁと思っていたところに産業保健部の方から面談の要請が来た。これで、少しは業務時間に制限がかかり、少しは楽な生活になるかと思い、嬉しかった。

 土日になり、仕事は休みで息子と電車に乗って、文化祭に行ったりしていた。ただ、頭痛とそれに伴う吐気を我慢しての、辛い付き添いだった。(とは言いつつも、息子はその学校に進み、楽しそうに学校生活を送っている。何かの縁があったとしか思えない。)

 次の日は日曜日で、朝から頭痛で動けず、休日急患センターに行く。そこで医師から、どこがどう痛いのですか? と尋ねられるが、激痛でどう痛いという問に答えられず、鎮痛剤を処方されたのみだった。家に戻り早速鎮痛剤を服用するが、効果なし、頭痛に耐えて、寝るまでの時間を過ごした。精神的な頭痛だとすると、こりゃ大変な痛みだなぁと思って次の日の朝を迎えると、また、頭痛がひどい。仕方なく会社を休み、家で様子を見ることにした。行きつけの内科に行くも、どこがどう痛いのですか、と聞かれて、とにかく全部がムチャクチャ痛いのですとしかいえず、漢方薬が処方された。家に戻って、食事をとろうと思ったが、気分が悪く、そのまま食堂の床に横になってしまった。妻が仕事から戻って来て、体調はどう?と尋ねられるが、最悪…としか答えられずに、床に寝てしまった。

 その姿を見て、これは大変と思ったのか、CT検査ができる病院にタクシーで連れていかれた。当直の先生がすぐにCTを撮影して下さり、撮影画像を見せられて説明が始まった。しかし、その画像は説明も不要なくらいの大きな腫瘍(5cm)がはっきり写っていた。

0011_初発画像8

 その写真を見たときに、あ~これなら1カ月くらい会社を休めるな~と少し嬉しかった。

 先生が説明した後、先生が、耳元で指を鳴らして、左耳の聞こえが悪くなっていることと、左目が見えにくくなっていることを指摘し、脳のむくみを指摘され、緊急入院の措置を取られた。そして、直後から、脳のむくみを取るためのグリセリンの点滴が始まった。これの効果は抜群で、点滴を注入している間は頭痛が無い。しかし、連続投与ができないので必ず、何時間に1回かの頭痛と闘う時間が来る。次の日から検査が始まった。とにかく脳腫瘍というのは、色々な種類があり、その判定をしないと治療ができない。MRIや、ガリウムシンチレーションなど、さまざまな検査を毎日実施した。僕の心の中では、この腫瘍は良性なのだろうか、それとも、悪性なのだろうか、ということが逡巡していた。医師が来るたびに、良性なのか、悪性なのか、と尋ねる毎日だった。すでにして、顔の認知能力は無くなっており、代わる代わる登場する医師に同じ質問をしたりして、江尻さん、それは先日お話ししたように、まだわかりません、と怒られたりもした。

 ある日、あまり親切では無さそうな医師が来て、悪性じゃないか、というようなニュアンスの話をして病室を去った。その時の衝撃は強く、妻に泣いて電話をした…。しかし、最終的な結果は告知されないまま、時間が経って行き、その後、良くわからないが、良性の髄膜腫ではないかという結論が出た。これは、手術をして腫瘍を切除する必要があるが、腫瘍の発生位置が脳の奥にあるため、身体に障害が残るだろうという説明があった。左目が見えなくなっても、生命がある方がいいだろう、と医師に言われ、手術を行うことを決意した。手術をするとなれば、医師の技術も重要で、医師選びが始まり、妻と母親の勧めで転院して、別の病院の教授の先生に切ってもらうのが良いだろうということになった。そのことを入院先のドクターに言った所、うちの病院は腫瘍ではなく血管が専門なので、それはその方が良いかもしれないと、好意的に転院を勧めてくれた。

 一ヶ月前くらいからやる気が起きないうつ状態が始まり、メンタルクリニックに連れて行かないといけないな、と思っていました。ちょうど私の仕事が忙しい時期で、落ち着いたら行こうと思っていた矢先、「お父さんが台所の床で倒れて動けなくなっている」、と息子からSOSの電話があり、急いで帰って夜間救急のA病院に連れて行きました。そこで分かったのはまさかの「脳腫瘍」。右脳に5センチの腫瘍があり、左無視、左聴覚↓、左麻痺があるとのこと。これで頭が痛かったんだ、どうしてもっと早く病院に連れて行けなかったんだろう、という申し訳ない気持ちと、明日からいったいどんな生活になるんだろうという不安と、何としてでも元気になってもらわなきゃ、という気持ちと、いろんな想いがグルグル回りながら、病院の暗い廊下で入院手続きを待っていたのを思い出します。

 A院での診断は、良性の髄膜腫。2ヶ月くらいの入院で大丈夫でしょう、手術も急ぐことはないと言われ、ホッとしました。

※次回「B病院へ転院」は、5月30日あたりに更新する予定です。

はじめまして

注目

夫は、2008年9月に中枢神経原発悪性リンパ腫という珍しい種類の悪性脳腫瘍であることが分かり、38歳で闘病生活が始まりました。当時、小学4年と6年の子どもを抱え、突然夫がいつまで生きられるか分からない状況に陥り、混乱の中にあった私は、病気のことが載っているサイトを調べたり、闘病記を検索したりする毎日でした。

 ところが、病気の説明は絶望的なことばかり、数少ない闘病記は途中で患者さんが亡くなって終わってしまっているものがほとんど。日々医師から治療方針などの決定を求められても、情報が少なすぎて判断できず、また、希望を持つこともできない状態でした。

 それから6年半が過ぎ、再発を繰り返しながらも奇跡的に寛解を保ち、生かされ続けている今、夫が高次脳機能障害など様々な後遺症を持ちながらも元気に会社に行き続けている現実が、もしかしたら同じ病気の方々を励ますことになるのでは、また、患者会などでもほとんど出会うことのない同じ病気の方々と情報交換ができるきっかけになるのでは、という想いから、ブログを書き始めることにしました。

 夫は記憶障害、注意障害、遂行機能障害、地誌的障害などなど色々な高次脳機能障害の症状があるため、6年も前のことを正確に思い出すことは難しいと思います。でも、患者本人の言葉に勝るものはないと思うので、夫の文章に私も少しずつ書き加える形ですすめていこうと思います。