待ちに待った一時退院! (2008年11月後半

いよいよ、11/14の採血の結果を見て、一時退院の許可が出た。全身から喜びが溢れた。家に帰れる、家はどんな感じだろうか? ピアノが弾ける、夢は膨らむ。
何を食べようか…。もし熱が出た場合には病院の代表に至急連絡するようにということと、サバと牡蠣は食べないようにと注意を受け、11/14(金)退院した。
ウキウキで病院の外に出て、記念撮影をする。そしてタクシーに乗り込んだ。

家まで40分くらいの道中、窓から流れる風景をみていたが、とても怖かった。というのも、流れる風景が全く認識できず、目がチラチラするだけだった。脳の手術をして、腫瘍も残っているので仕方がないのだろうと思った。家に帰って1日目、半年ぶり家ではどう過ごしたら良いのかわからなかった。
子どもたちと遊ぶこともできず、居場所がなかった。リビングのテレビをみんなで視たが、僕だけ映像についていけず、がっかりした。大好きだったテレビも視られず、悲しい帰宅だった。

そして、次の日11/15(土)昼に会社の同僚など関係者が我が家を訪問して、お見舞いに来てくれた。じっと椅子に座って話をしたが、体力的な問題もなく、比較的安定していたので、みんなも安心してくれた。夜は、久しぶりに料理をし、お好み焼きを焼いた。特に問題なく、以前と同じようなお好み焼きができた。

11/17(月)妻が一人で外出してしまった。とても寂しく不安だった。そしてこの日は、入院中から計画していた、カムジャタンという韓国の鍋料理を作る。ネット上のレシピで作ったが、大好評。嬉しかった。

11/18(火)退院後初めての診察があり、タクシーとバス、電車を使って通院。手のしびれについて、医師に尋ねると、オンコビンという抗がん剤の副作用とのこと、すぐに良くなるよ!と言われ、安心した。しびれたままでは、ピアノが弾けないから…。そして次の治療のための入院について、病院から電話があるので、自宅で待っていて欲しいと言われた。我が家に2台あった電話機では、取りきれないかということで、2台足して、どんな電話でもどこに居ても逃さない体制にした。(実際は、何度もかけてくれるらしい… )目の見え方がおかしく、このままでは…と不安になった。これも腫瘍のせいで、実際は腫瘍の消失と同時に気にならなくなった。とにかく、毎日不安なことばかり考えてしまう。気を紛らわせるために、妻が駅まで行こう、と誘ってくれる。ついて行っても以前のイメージとは違っていて、不安になってしまう。

11/22(土)子供たちの学芸会に行く。でもやっぱり不安。見ても、まったく理解できず、ついていけない自分があり不安になる。学芸会に行って、趣味の写真をたくさん撮るが、これを将来見るときに自分の命があるのかどうかで、不安になる。非常に精神状態が良くない。ということで、次の入院の時に、精神科医師の訪問治療を受けるように、言われた。
何だか生きている意味が感じられなくなった。死にたい、って思った。

11/23(日)中学校からの友人2人が我が家に来てくれた。病気のことを全て話せる友人で お弁当の吉野家の牛丼を3人で食べ、元気になった。とてもうれしかった。
昨日、息子に怒られた。「お父さんは元気だし、死ぬなんて言ってはいけない」と。確かにその通りかもしれない。息子に励まされ少し元気を取り戻す。
ただ、相変わらず、見たものの認識能力はおかしい。生命はあっても、心が無いとなぁ…。元通りの自分に戻る自信が無い。どうなってしまうのだろうか…不安で一杯の生活だ。5年生存率も50%だし死を覚悟しながらの生活だった。家に居てもすることが見つからず、ベッドで寝ている毎日だった。妻はそんな僕を見かねて、外に誘いだそうとしてくれたのだが、頭蓋骨の入っていない状態で動くと、脳圧の変化が激しく、強烈な頭痛に襲われた。頭痛薬を飲むとその瞬間は収まるのだが、眠気が来る。そして眠ってしまうと、起きぬけの頭痛に悩まされる。という悪循環のサイクルに陥ってしまうので、頭を動かさずに起きているという生活を送っていた。テレビと音楽を聴いて、毎日生活をしていた。

妻が出かけると、僕の寂しさは頂点に達し、不安で涙が出て仕方がなかった。

待望の一時退院が決まり、病院に迎えに行くと、「家の周りが思い出せない。家の間取りも思い出せない」と落ち込んでいました。
タクシーに乗ると、景色が速すぎて怖い、家に帰るとテレビを見てもついていけない、子どもたちの声はうるさい、街に連れ出しても、慣れ親しんでいるはずの道も方角も分からない、など、以前の自分と変わってしまったことに落ち込み、「もう病院に戻ったほうがいいかも」と言ったりもします。
そんな夫を子どもたちと励ましながらの生活でしたが、久々の4人揃っての家での日々はやはりホッとしました。